1.イエス様の予告
イエス様と弟子たちは、ヘルモン山の麓から南下してガリラヤ地方を通り、エルサレムへ向かいました。そのとき、気まずい空気があったのでしょう。こんなことが書かれています。
『9:30~しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。』
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」 この言葉の意味するところは何か? それは、イエス様が殺されると言うことですから、「弟子たちも殺される」ということに直接つながります。それだけでもとても受け止められるものではありません。さらに、「三日の後に復活する」と意味不明なことをイエス様は話しました。
「死ぬけど復活するってどういうことなのですか?」
「私たち弟子も死んで復活するんですか?」
「復活するのは、天の国のことですか?」 などと、弟子たちは聞きたかったでしょう。しかし、もっともっと聞かなければならないことがありました。イエス様がいつ、どこで、誰に、殺されるか?殺される理由は何か?」です。今から何が起こるのか?そして、それはすぐに来るのか? すぐ来るのであれば、今覚悟を決めるか?逃げ出すか?を決めなければならない。そして、できるだけイエス様にはついていきたいが、最後の場面まで、そうしていられるか?自問自答していたことでしょう。 たぶん、誰かイエス様のことを知っている人と出会ったならば、イエス様のグループが深刻な悩みごとの中にあることが、あからさまに知れてしまう・・・。そのことをイエス様は、気にしていました。なぜなら、エルサレムで栄光を受けるために上っている途中です。神様の計画、イエス様を十字架につける計画を成就させるためにエルサレムに向かっている今、いつもと様子がちがうことが知れ渡っては、こまるからです。神様の計画は成就させなければならないのです。そして、弟子たちにご自身の十字架の死と復活を教えることで、復活後に弟子たちに福音伝道をゆだねる準備を進めなければなりません。
しかし、弟子たちは、イエス様をローマ支配から解放する、地上的な王と考えていました。すなわち、苦難を受け死ねば、すべてがご破算になってしまうのです。そんなことでは、イエス様についてきた意味が完全に失われるのです。それだけではなく、地上的な王としてのイエス様を求め、自分たちもイエス様の右腕になることを夢見ていた弟子たちです。イエス様が王様にならずに、苦しみを受け殺されることは、全く受け入れられなかったのです。
2.誰が偉いか?
すると、弟子たちの本音がここで出ます。イエス様に尋ねることをためらったものの、弟子たちの心の中にあった彼らの思いが、現れます。弟子たちは道中、誰が一番偉いか議論し合いました。
『 9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。』
イエス様は、弟子たちが議論しているのをずっと見ていましたが、その内容は聞き取れていません。それでも、イエス様が願うような議論ではないことには気が付いています。それで、「途中で何を議論していたのか?」と弟子たちに聞いたわけです。 弟子たちは、答えられませんでした。イエス様の予告について、議論をしていたのではなく、イエス様が栄光を受け、王様となった後、誰が役人のトップになるかをすでに争っていたからです。
『9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」』
こう教えると言うことは、イエス様は、弟子たちが何を議論していたかわかっていたようです。弟子たちは、「自分が先であり、自分が人を使う」事ばかり考えています。しかし、こんな人にはリーダは務まりません。なぜなら、後ろの者、そして使われる者の気持ちをないがしろにしてしまうからです。
『9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」』
子供は、今の時代では大切にされますが、当時は無力で無価値な存在でした。しかし、イエス様は一人の子供を腕に抱き上げて、「このような子供を受け入れる者がイエス様を信じる」と教えます。そして、「その者こそが、神様を受け入れる真の信仰者である」と教えたのです。「仕えてもらう」ことしか考えていない弟子たちに、最も低い者に仕える「一番最後の人の後に」、「一番下の下に」身を置くよう教えたのです。
実際、イエス様はそう教えただけではなく、仕える者でした。当時無価値な存在とされていた子どもを腕に抱きましたし、弟子たちにも仕えました。イエス様に続くために、弟子たちは神様と人に仕える十字架の道を理解しなければなりません。しかし、彼らはまだ理解していないのです。イエス様はそんな弟子たちに、「いつまで分からないのか」と叱りつけるのではなく、また見て見ぬふりするのでもなく、家に入ってから、「途中、何を議論していたのか」と尋ねました。黙る弟子たちに、教えました。・・・まさにこの時、イエス様は弟子たちに仕える者として、弟子たちに教えたのです。
神様と人に仕える者として造られた私たち人間です。しかし、高ぶっては、人に仕えてもらうことをひたすら求め、仕える歩みを忘れてしまっています。イエス様はそんな私たちを愛して仕えて下さいます。そして、十字架上で贖いとして自らを捧げました。私たちが、神様に立ち返り、神様に仕える者となる道を開いて下さったのです。