ルカ4:1-13

復活の備え 

2022年 3 6日 主日礼拝     

 「復活の備え

聖書 ルカ4:1-13

先週の水曜日(灰の水曜日)から、四旬節(レント)になりました。四旬節とはイースター(イエス様の復活)まで40日の意味です。この40日の中には、日曜日は数えられていませんので、7週間の42日と少しの期間が、四旬節となります。今日は、イースターの準備という意味で四旬節の定番となっている聖書の箇所から(マタイ4:1-11、マルコ1:12-13も四旬節の定番)み言葉を取り次ぎます。

 聖書の中では、40は特別な数字です。イエス様は今日の聖書の箇所で、40日間荒野で断食しましたが、聖書には他にも、40という数字が出てきます。旧約聖書では、モーセは民を率いて40年荒野を彷徨いました。また、ヨナはニネヴェの人々に「40日以内に改心しなければ街が滅びる」と預言しました。このように、40日は備える期間として代表的な数字になっています。

バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたその時、イエス様に聖霊が降りました(ルカ3:22)。この出来事から、イエス様の公(おおやけ)の伝道が始まるのですが、その前に準備の時がありました。「荒野を四十日の間、その霊に引き回わされ」たのです。イエス様は聖霊に導かれて荒野で四十日を過ごされました。この四十日間は、イエス様は悪魔の誘惑と戦いでした。これから始まる、伝道活動。そして十字架への道のりを考えると、この悪魔の誘惑と言う試練を乗り越え、備えをすることが必要だったのだと思われます。結果として、イエス様はその試練を乗り越えることができました。イエス様は、知恵によって打ち勝ったのではなく、「聖書の言葉」によって悪魔の誘惑を退けたのです。

悪魔は、荒れ野で40日間イエス様を誘惑し続け、その間イエス様は食事をしませんでした。その時を狙って悪魔は、空腹になったイエス様にこのように言います。

「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

この悪魔の言葉には、2つの誘惑があります。一つは、イエス様ご自身の「食べたい」との欲望のために、奇跡を使わせようとしたこと。二つ目は、「神の子であるのに、こんなこともできないのか?」という挑発であります。これは、「神の子であることを証明せよ」との唆しです。この誘惑にそのまま乗ってしまって、石をパンに変えた瞬間に「神の子でも、空腹には勝てない」、「神の子は自分のために奇跡を行う」ということになってしまい、「神の子である証明」であるはずのしるしが示されたとしても、不完全な証明となってしまうのです。

しかし、イエス様には神様から与えられた権威があります。ですから、この誘惑には乗らずに、旧約聖書のみ言葉をもって言い返されました。

『人はパンだけで生きるものではない』 それは、この箇所から来ています。

申命記8:3「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

この時、イエス様を飢えさせているのは神様であります。イエス様は、40日間も聖霊に引き回されて飢えました。これは、神様の意志で起こしたことであります。神様の意思が働くときとき、神様はその働きの間、人間の肉体を維持します。そのときの人間は、何もしなくても神様の力によって保たれるのです。したがって、そのとき人間でもあったイエス様は、神様に依存し、神様の意志に服従し、イエス様がここに連れられてきた目的が果たされるのを待つだけで十分だったのです。したがって、イエス様の飢えを取り除くために石をパンに変える必要がないことは言うまでもありません。

ところで、「主の口から出るすべての言葉」とは何を指すのでしょうか?聖書全体を指すのでしょうか?それともモーセを介して与えられた律法のことでしょうか?「主の口から出るすべての言葉」とは、イエス様が十字架の死を乗り越えて復活したこと。それは「福音」のことです。福音とその真理は、イエス様の言葉でありますし、信仰と教えに包まれた、良く磨かれた言葉であります。福音によって、イエス様を信じる者は養われます。パンや健康のための食べ物が体にとって養うものであるように、福音は私たちイエス様を信じる者の魂を養うものであるのです。

 

第二の誘惑で、悪魔はイエス様を高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべてを見せました。そして、

『もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。』

と言いました。イエス様は次のように答えられます。

「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

これは、申命記6:13からの引用です。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」

たとえ、悪魔がこの世の権力や繁栄を任されているとしても、それを任せたのは神様です。本当に神様は、悪魔に任されたのかどうかはわかりませんが、少なくとも言えるのは、全ては神様のものであることです。この世の権力や繁栄だけではなく、すべてのものを支配しておられるのは神様なのです。ですから、悪魔の自由になるわけではありません。ましてや、その権力や繁栄を手に入れるために、「神様ではなく悪魔を礼拝しろ」と唆すわけですから、イエス様が神様の言葉に背くように、悪魔が誘惑したのです。イエス様は、そのような誘惑をみ言葉を使って断ったのです。

 

第三の誘惑は、神殿の屋根の端から飛び降りてみろ、というものでした。それに対してイエス様は

「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」

と答えられます。

これは申命記によるものです。

「6:16 あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」

マサとは、モーセがエジプトを脱出した民を引き連れているときに、岩を打って水を出した場所の名です。(出エジプト17:7)このとき、飲み水に困った民は神様に信頼せずに、モーセに対して「水を与えよ」と騒ぎました。神様は民を守り続けているのにです。・・・モーセは、このとき「主を試すのか!」と言って不快感を示します。モーセに「水を与えよ」と言うことは、「神様に信頼するならば、この場で神様の奇跡をここで起こして見なさい」と言っていることになるからです。

悪魔は、3つめの誘惑のために、み言葉を使いました。詩編(91:11-12)にあるモーセの祈りです。悪魔は、モーセの祈っている一部を切り取って、この誘惑をしますが、明らかにこれは神様の言葉ではなく、人の願いであります。このようなみ言葉の使い方は、正しくはありません。しかし、「み言葉によって生きる」との最初の誘惑に対するイエス様の答えを悪用しているようにも見えます。

そう言う悪魔の悪知恵に対して、イエス様が指摘したのは「神様を試してはいけない」と言うことでした。イエス様は、神様の御子として、神様を深く信頼していましたから、神様を試したりしません。イエス様は、ご自分を全て神様に委ねて歩み始めていたのです。 イエス様は、三度の誘惑に対して、全て申命記のみ言葉で、悪魔を退けました。これらのみ言葉を、たった一人で荒れ野に居て、即座に答えることが出来たのは、それだけイエス様が聖書の言葉に通じておられたからです。 そして、たった一人で、孤独な状態で40日も食べていない飢えた状態でですから、毅然として誘惑を断ち切ることはなかなか難しいことだと思います。しかし、イエス様はすべてを神様にゆだね祈りましたから、それができたのだと信じます。それは、イエス様が人間だとしたらとのことですが、そもそもイエス様は神様なので、できないことはないのです。しかし、地上にあってはイエス様は人でもありました。人であっても、神様にすべてを委ねれば、わたしたちは守られ続ける。私たち普通の人間にとっても、それは暗闇にさす一筋の光のような希望ですから、「神様の言葉」を信じる事、「神様の言葉」にゆだねる事が、悪魔の誘惑と戦う武器になったのだといえます。

十字架にかかられ、三日後に復活されたイエス様は罪の力にも死の力にも打ち勝たれました。その前に、悪魔にも完全に勝利されていたのです。この勝利は、どんなことがあっても揺るがない神様への信仰によってもたらされたと言えます。

 

悪魔はイエス様に対して、父なる神様の御心通りに歩ませないようにと働きかけてきました。悪魔は私たちに対しても神様から引き離そうと誘惑を試みてきます。 私たちは聖霊によりイエス様から力をいただいて様々な誘惑と戦います。今もイエス様は、私たちに聖霊とみ言葉を与えて下さり、試みや誘惑に遭う私たちを励まし、支え、乗り越える力を与えて下さいます。

このようにルカによる福音書には、イエス様が伝道に出られる前にすでに全き人、罪のない人であったことが記されています。そして、イエス様は、モーセを通して頂いた契約を完成させに来たのです。こうして、イエス様は準備を整え、伝道の業の備え、十字架の死と復活の備えとしたのです。

 

 今年のイースターは、4月17日です。キリスト教の年間行事では、イエス様の復活を祝う最も重要な日ですが、日本ではなぜかクリスマスが盛んなのに、イースターを知っている人は少ないです。イースターを知っているとしたら、教会学校に通っていた人くらいかもしれません。教会学校に出たことがあれば、ゆで卵を使ってイースターエッグを作ったり、そのイースターエッグを隠してみんなで探したりという思い出があると思います。また、墓地を持っている教会では、朝、日の出のころにイエス様の復活を祝って墓地で礼拝することもできます。それから、キリスト教は「食卓の宗教」とも呼ばれるように、愛餐会があります。イースターの祝会が最もごちそうが並ぶときのはずです。しかし、残念ながら昨年、一昨年と同様に、教会での行事は困難と思われます。出来ることと言ったら、受難週の一週間、朝のお祈りをするとか、イースターまでの7週間の過ごし方を変える事ぐらいかな?と思います。それぞれ、自由に決めて良いですが、好きなものを断つことでイエス様の受難を憶えるのも良いでしょう。受難週に「甘いもの絶ち」をする人は結構いるようです。イエス様の復活の喜びは、イエス様の受難を思い、祈ることによって、さらに高められます。そして、その喜びを周りの人々にお知らせしましょう。まず、私たちがイエス様の復活を心から喜ぶことから始めたいです。これからイースターまでの間、私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様のことを覚えて、祈ってまいりましょう。私たちは、イエス様の十字架があってこそ、救われたのです。