2025年 4月 13日 主日礼拝
『救い主の預言』
聖書 ゼカリヤ書9:9-17
棕櫚の日曜日を迎えました。いよいよ受難週であります。ゼカリヤは、紀元前6世紀後半ごろのユダヤ人の預言者で、このころにはエルサレムの神殿は再建されていました。ですから、神殿の再建に活躍したネヘミヤやエズラの次の世代の人です。(エズラは、ゼカリヤを知っていました)その頃のユダヤは、神殿の再建がかなった事を受けて、ユダヤが国となっていく事を願っていました。そんな時に、ゼカリヤが預言したわけです。その預言には、メシア、救い主であるイエス様の十字架上での死と、再臨も含まれています。
今日の最初の箇所(9節、10節)は、イエス様の「エルサレム入城」の場面です。当時、ユダヤの人々はローマに支配されていました。このことはユダヤの人々にとって、悲しく、そして屈辱でありました。ですから、人々は「あなたの王が来る」とのゼカリヤの預言に希望を抱き、祈ったのです。
『9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。』
イエス様の「エルサレム入城」の時、ユダヤの人々は、イエス様こそ、自分たちの待ち焦がれていた王様、ローマ帝国を打ち破り、その支配から解放してくれる救い主として期待しました。そして、イエス様がエルサレムに迎え入れるために、自分の上着や、しゅろの葉をじゅうたんのように道に敷いて、「ダビデの子にホサナ!」(マタイ21:9)と叫んで迎え入れたのです。ダビデの子とは、イスラエルとユダの王を指します。また、 ホサナとはラテン語ですが、元のヘブライ語で「ホジアンナ」で、『どうか、救ってください』という意味です。
ところが、イエス様は、なんと子ろばに乗って来ます。
ルカ『19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。』
イエス様は、王様や兵隊が乗るような立派な馬に乗って来たのではなかったのです。それは、ゼカリヤの預言どおりでした。ところで、どうして ろばなのでしょう。それは、イエス様の生き方を示しているのだと思います。イエス様は高いところから見下ろすのではなく、私たちと同じ目線で、私たちの友となってくださる。イエス様は、そういう王様なのです。だから、武力ではなく、愛によって私たちを治めます。また、ろばの足は遅いのですが、それは欠点ではありません。イエス様は、歩みの遅い者、子供や老人などの弱い者に歩みを合わせるために、ろばに乗って来る王様なのです。
そのイエス様について、ユダヤの人々が期待していたのは、政治的・軍事的な力でした。再びこのユダヤのエルサレムに栄光を呼び込んでほしい。そのような王、そのようなリーダーを求めてユダヤの人々は、「ホサナ、救ってください」と叫んでいたのです。
さて、メシア(救い主)が最初に来る時を、あまり馴染みのない言葉ですが、初臨と呼びます。 メシアは、約2000年前の初臨のとき(つまり、最初に地上に来られたとき)、十字架にかけられて死にました。イエス様は、人々から拒まれ、殺されました。しかしイエス様は、今も変わらず、私たちを信仰へと導いています。そして、イエス様が再び来る時がやってきます。
ところで、イエス様は初臨の時、自分がメシアであるとは一言も言いませんでした。その代わりに、旧約聖書で預言されているメシアを意識していたと言えます。つまり、預言を自ら再現することで、ご自身がメシアであることを示したのです。そんな理解が、マタイによる福音書に書かれています。マタイは、「イエス様によってゼカリヤの預言が成就した」と証ししたのです。
マタイ『21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」』
マタイによると、ここに引用されたゼカリヤの預言は、成就しました。しかし、弟子たちがそれを知るのは、イエス様が復活した後でした。
救い主のエルサレム入城を予言したゼカリヤは、再臨も預言しています。
『9:10 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。』
この記事は、メシアが再び来られる再臨の時の預言です。預言は、神様が預言者に語らせたものです。神様のご計画がどのように始まって、どんな結末になるのか、その一部を、神様が示しているのです。
さて、メシアの再臨では、イエス様が王でありメシアとしてこの地上の戦いを終えさせ、義と平和を実現します。そして、全地を支配します。それは多くの預言者たちによって語られてきた「神の国」を意味します。しかし、この預言がどのように成就していくかまでは、示されていません。それでも、神の国はやがてやって来ることは、預言されているのです。
ところで、このゼカリヤ9章には、もうひとつ注目したい、預言があります。それは、イスラエルが国として勢力を回復することです。
『9:12 希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる。9:13 わたしが引き絞るのはユダ/エフライムもわたしは弓として張る。シオンよ、わたしはあなたの子らを奮い立たせ/あなたを勇士の剣のようにして/ヤワンよ、お前の子らに向かって攻めさせる。』
「希望を抱く捕らわれ人」とは、イスラエルの民のことです。バビロンに捕囚されたイスラエルの民は、やがて帰還を許されました。しかし、荒廃しきったユダヤの国は、まだまだ、復興のために人と時間が必要です。ですから砦つまり、エルサレムに戻って、国を復興するようにと神様はイスラエルに呼び掛けているのです。ようやく、神殿はペルシャの援助で再建できました。そして、失われようとしていた律法(旧約聖書のモーセ五書)も復元し、神殿での礼拝を再開しました。しかし、イスラエルの民の多くは、まだ戻ってきていません。そして、手に入れた土地は、荒廃してしまったユダ(ユダの嗣業の地)とエフライム(ヨセフの子エフライムの嗣業の地)だけでした。そこで、ヤワンを打つとの預言です。ヤワンは(ノアの息子ヤフェトの子で、ティルスやシドンのあたりに住んだ)フェニキアやギリシャの人々の先祖です。ゼカリヤの時代から見た将来のことですから、ヤワンとはアレキサンダー大王の帝国から分かれたセレウコス朝シリアのことを指していると思われます。つまり、その巨大帝国を破って、祖国イスラエルが復興するとの預言なのです。その預言の成就は、そのままイスラエルの建国を意味します。そして、「二倍にしてあなたに報いる」との預言は成就するのでしょう。
さて、ゼカリヤの活躍した時代、建国を目指すユダヤを保護してくれたペルシャが、マケドニアから滅ぼされてしまいます。ですから、国の再興どころではなくなっていたのです。そして、マケドニアはエジプトとシリアに分裂して、覇を競ったわけです。そんなユダヤの現実が、この預言の背景にあります。史実としては紀元前2世紀まで、ユダヤはセレウコス朝シリアに、占領されていました。ところが、アンティオコス4世の時、シリアがエジプトを征服しようとするほどの勢いがあったので、そこにローマが介入してきます。それに同調して、ローマと手を握っていたユダヤは、反乱を起こしました。このユダヤで起きた反乱(マカバイ戦争)のため、シリアはエジプトへの侵攻を断念したという経緯があります。
このときユダヤが反乱した理由は、そもそも独立を目指していたところにあります。また、アンティオコスのユダヤへの圧政もありました。これに対してユダヤ人たちはユダ・マカバイの一族(ハスモン家)をリーダーとして立ち上がり、シリア軍を撃破するなど、各地で奮闘したのです。しかし、ユダヤの国は再興はかないませんでした。ローマがシリアにとって代わっただけだったのです。この事実を受け止めると、ゼカリヤの、「イスラエルの民が救われる」との預言は、まだその時ではなかった と言うことになります。なぜなら、ゼカリヤより前のエゼキエルの預言が成就していないからです。
エゼキエル『37:24 わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。』
史実として、シリアへの反乱を起こしたユダヤは、再興しませんでした。その後一時的にユダの国がありましたが、ローマの属国だったのでユダヤの再興とは言えません。また、今存在するイスラエルも、メシアによって建国されたものではないのです。ですから、この国の再興の預言は、まだ成就していない、そう私は思います。
『9:16 彼らの神なる主は、その日、彼らを救い/その民を羊のように養われる。彼らは王冠の宝石のように/主の土地の上で高貴な光を放つ。』
この預言が成就するのはいつか?それは、イエス様が再び来られる時です。
ゼカリヤの、「イエス様がメシアとしてやってくる」との初臨の預言は成就しました。そして神様の計画によって、イエス様は十字架にかけられ、死にます。そのとき、イエス様が十字架と一緒に背負ったのは、私たちの罪です。その犠牲のおかげで、イエス様をメシア、救い主だと信じる私たちの罪が赦されているのです。そして、イエス様が予告したとおりに三日目にイエス様は復活しました。私たちは、そのイエス様を信じる信仰を与えられ、感謝してその恵みに与っています。今イエス様は、天に戻っていますが再び来ます。その時まで、私たちは、イエス様のことを宣べ伝え、すべての人がイエス様のことを信じるように、祈っていきたいものです。受難週の間、このことを祈ってまいりましょう。