列王記下2:1-15 

神様の召しに応える

2024512日主日礼

神様の召しに応える

 聖書 列王記下2:1-15

 今日は、列王記下からみ言葉を取り次ぎます。列王記には、ダビデ王の次の時代が描かれています。ソロモンの治世に始まり、バビロン捕囚までの間の事です。ある意味歴史書でありながら、預言書でもあるこの列王記を書いたのは、預言者エレミヤだとされています。ちょうどエレミヤはバビロン捕囚のころに活躍した預言者でありますから、この約300年の間の記事を書いた可能性は十分にあるわけです。そして、今日の箇所に登場するのは、エリヤとエリシャです。エリヤは、紀元前860年ころの預言者で、北王国で活躍しました。有名な逸話が「カルメル山で預言者エリヤが、異教であるバアルの祭祀たちと対決する」場面です。(列王記上 18章1節-22章38節)また、今日の聖書の箇所も重要であります。この記事が根拠となって、エリヤは再来すると言われて来ました。と言うのは、エリヤが天に上げられたまま、所在が分からない上に、エリヤが死んだとの記事がないからです。そして、もう一人の登場人物がエリシャです。神様は、エリヤの後継者としてエリシャを指名しました。それは、当時のアハブ王(北王国)の妻イゼベルがエリヤの命を狙った時の出来事です。エリヤはホレブ山まで逃げ延びていました。その時神様は、エリヤに命令します。

列王記上『19:15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。19:16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。』


 今日の箇所は、、エリヤが受けている霊的な賜物を エリシャが受け継ぐ記事です。ここから、エリシャ物語が始まりますが、それは同時にエリヤのその役割を終えることでもあります。その終わりとなる出来事は、エリヤの昇天でありました。この昇天の記事は、エリヤが特別な預言者であったことを示しています。なぜかと言いますと、旧約聖書の中で天に上げられたとはっきり書かれている人物は、ノアの曽祖父であるエノク(:創世記5:24『5:24 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。』)とエリヤだけだからです。また、今日の箇所のすぐ後には、こんな内容の記事があります。「エリコの預言者たちは、天に上げられたエリヤがどこかの谷に投げ落とされたかもしれないので、50人の戦士を使ってその体を探しました。しかし、見つけることが出来ません。(列王下2:16-17節要約)」。この捜索の結果を受けて、エリヤの遺体がみつからないことから、「エリヤは生きて天にいる」と理解されているのです。

 エリヤは、モーセと並ぶ旧約を代表する預言者として、新約聖書にも登場します。それは、イエス様の姿が山上で変わった場面です(マタイ17:3-4、マルコ9:4-5、ルカ9:30,33)。同じように、今日の記事のなかでは、エリヤをモーセと対比しています。 まず、モーセです。モーセはエジプトの地で奴隷とされて苦しむイスラエルの民を救い出すために、神様によって立てられました。モーセは、預言者として働き、イスラエルを指導したことが知られています。もっとも有名な奇跡物語は、紅海の水を分け、乾いた海の底を民が渡ったことです。これらの奇跡の数々を起こし、イスラエルを導いたモーセは、偉大な指導者とされました。そしてエリヤとエリシャは、神様とイスラエルの民を仲立ちする者として、モーセの働きを受け継ぐ預言者であります。それは、今日の奇跡の中にも示されています。


 エリヤが天に上げられる時、神様はまず先に嵐を起こしました。嵐とは、強い風により起きるものです。ヘブライ語では、風と霊とは同じ言葉(ルーアッハ)を使います。つまり、神様の霊の強い力は、嵐となってエリヤに臨んだのです。そして、エリヤの働きを終わらせ、同時に、地上から取り去ろうとします。

 そこで、「神様が地上から自分を取り去るその時が来た」と悟ったエリヤは、エリシャを連れてギルガルを出ました。エリシャもそのことをすでに知っています。エリヤはエリシャに言いました。『主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい』

エリシャは、こう答えます。『主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません』

 エリシャは、このままエリヤに従って、ギルガルからベテルに向かいます。べテルは、ギルガルの南10kmほどの所にあります。べテルで出会った預言者たちは、エリシャにこう言います。『主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか』 エリシャはこれに応えます。『わたしも知っています。黙っていてください』 エリヤは、それを聞いてエリシャに言います。『エリシャよ、主はわたしをエリコへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい』それに対してエリシャは『主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません』 この会話は、ギルガルを出るときと全く一緒です。地名がべテルからエリコに代わっただけでした。エリコは、べテルから東に約15km。ヨルダン川の西5kmくらいにエリコはあります。そしてエリコでも、べテルと同じようなやり取りが繰り返されます。エリコの預言者たちが言った言葉は、べテルの預言者と同じでした。それに対するエリシャの答えも同じです。それに対するエリヤの言葉も、最初はべテル、そして次にエリコそして今度はヨルダンに変わっただけで、内容は一緒です。そして3度目のエリシャの答えも同じでした

『主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」』

この3度繰り返されるエリヤとエリシャの会話ですが、決してエリヤがエリシャを拒んでいたのではありません。エリヤが受けている神様の霊を受け継がなければならないエリシャです。ですから、エリヤは、エリシャの信仰や決意を試していたのだと思われます。エリシャは、信仰を持って、神様の業への召しを受け取ろうとするのか?それを、エリヤは見ていたと言ってよいでしょう。

 エリシャはエリヤのもとを離れませんでした。その理由は、神様の霊がエリヤに生きて働いている からにほかなりません。神様の霊に導かれている預言者エリヤは、神様からの祝福を受け、神様からの力を受け続けているとエリシャは信じたからです。また、このエリヤに働く神様の霊を受け継ぐことなくして、エリシャはエリヤの後継者とはなり得ません。だからどんなことがあっても、「神様の霊がエリヤに働きかけている間は、まだ、エリヤから離れ、自立する時では無い」とエリシャは答えたのです。信仰とは、神様の与えてくださる恵みに執着することでもあります。神様によって与えられている役割を担う時には、神様の霊を受け継ぐ恵みに預かります。その時が来るまで、エリヤから離れずに待つ。そこにエリシャの信仰を感じます。


 この二人がエリコで起こした奇跡は、50人もの預言者が目撃しました。『2:8 エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。』

 この奇跡の記事は、エリヤがモーセと並ぶ預言者であることを暗に示しています。エリヤが神様の霊の力によって、モーセに匹敵する業をエリコで起こしたのです。エリヤに神様の霊が働き続けている以上、まだエリシャはエリヤの後継者とはなり得ません。だからエリシャは、その時を待っているのですが、3度ともその時とはなりませんでした。エリヤに試されていたエリシャは、今一歩信仰をもって踏み出す必要があったのでしょう。


 エリヤは、奇跡の業で自分自身に神様の霊が今も働いていることを明らかにした上で、エリシャに問います。

『わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。』

 エリシャはこのエリヤの問いに答えます。『あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください』ここで言う「二つの分」とは、長子権の事です。(申命記21:17)。イスラエルの伝統では、長子は一族の長となるだけではなく、他の子供たちの2倍の相続に与ります。つまり、エリヤの働きを受け継ぎたいと申し入れたのです。その場には50人の預言者がいました。その証人たちの前で、エリシャは、エリヤの長子であることを自覚し、それにふさわしく神様の霊を相続することを望みました。エリシャのこの大胆な申し出は、預言者としての召命を自覚した上で願ったものす。そしてまた、神様の霊に拠らなければ何もできないとのエリシャの告白でもあります。

 エリヤは答えます。

『あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。』

 エリヤはエリシャを試してきましたが、合格したようです。いよいよ、エリヤが天に昇る時がやってきました。エリヤは、そのことを告げたのです。

 エリシャは、「火の戦車と火の馬」によって引き離され、嵐の中を天に昇っていくエリヤを見ました。・・・この記事は、神様からの使者がやって来て、エリヤが天に引き上げられたことを示しています。

 天に昇っていくエリヤを見たエリシャは、落ちてきたエリヤの外套を拾い、それを丸めてヨルダン川の水を打ちました。この水が分かれたという奇跡の出来事は、エリシャがエリヤの召命、そしてまた神様の霊を引き継いだことを示します。 


 今日の聖書は、「預言者の霊的な力は、神様から与えられる賜物」であることを示しています。預言者や指導者は、その与えられた力を神様の御用のために用いる時、ふさわしい働きができます。その神様の御用がまずあって、そしてそのために働く者が召されること、これが順番であります。そして、その神様の召しに応えて、神様のお役に立ちたいと祈り始めることが、召された者の第一歩となります。その一歩を踏み出した者の働きのために、神様は必要な賜物を授けてくださるのです。その神様が与える賜物に気づく時より以前から、私たちは、神様の御手の中にあります。神様に導かれ、そして平安が与えられるのです。決して、預言者や指導者が偉いから、神様が用いたわけではありません。誰であっても全ての人は、罪深いのです。その罪人をも導いてくださる神様を仰ぎ見ましょう。そして神様の御心に従い、その働きのちょっとした事でも手伝うことが、私たちクリスチャンにとって、神様への恩返しであり、喜びでもあります。神様は、いろいろな働きに一人一人を召しています。この神様の召しに応えたエリシャのように、祈ってまいりましょう。