マルコ6:30-44

  五つのパンと二匹の魚

 参考:ナザレで、イエス様は受け入れられませんでした。その後12人の弟子を付近の村々に派遣します。

『◆十二人を派遣する

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。』


 12弟子は、パンも袋ももたずに、宣教の旅に出ました。そして帰ってきたところが今日の聖書の箇所です。弟子たちは、杖と履物しか持っていませんから、5000人の給食で持っていた「五つのパンと二匹の魚」は、途中でお世話になった家の人から、いただいたものでしょう。イエス様へその宣教旅行の報告をすますと、イエス様は休むように言います。しかし、そこは大勢の人が集まっていたので、舟に乗って人里離れた場所へ移動します。たぶん、その場所はいつも休む場所なのでしょうか?人々は、先回りして舟よりも早く、その場所につきました。(イエス様の家はカファルナウムに マルコ2:1)


1.5000人の食事

 男だけで5000人ということは、仮に一人の男が家族4人を連れていたとすれば、25,000人にもなります。これでは、200デナリ(約140万円~200万円)もかかるということになってしまいます。また、それだけのお金があったとしても、これだけの量を手配することは極めて困難です。イエス様が群衆に向かって教えていましたが、弟子たちは、群衆を返すようにイエス様に勧めます。

『「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」』

 これは、冷静な判断だといえます。周辺の町で宣教していた弟子たちについてきているのであれば、旅行の準備はしてきているはずなので、お金は持っているのでしょうか? イエス様のところに集まってきていた人々も、その多くは周辺の町の人々と思われます。イエス様は、バプテスマのヨハネの活動を引き継いだ格好で、カファルナウムのシナゴーグで教えていたものと思われます。カファルナウムはガリラヤ湖の北側の少し西よりのところですが、そこからベトサイダのあたりに行くには、群衆を避けるために舟に乗ったのだと思われます。ベトサイダはカファルナウムの東側にある隣町です。このあたりが、5000人の給食の場所とされています。(ところが、カファルナウムのすぐ西のタブハには、パンと魚の奇跡の教会 が立てられています。)カファルナウムからベトサイダは、当然歩いたほうが早いですから、群衆に先回りされてしまいます。その姿を見て、イエス様は休むことをあきらめ、そして教え始めていたのです。

 時間が遅くなり、弟子たちに解散を勧められますが、イエス様は持っているだけのパンはいくつあるかを見てこさせます。イエス様は、その五つのパンと二匹の魚を群衆に配りました。イエス様と弟子たちのための休息をあきらめたばかりか、食べ物までも、群衆に与えられる物すべてを与えたのです。


2. みな満足する

 これを食べた群衆は満足しました。聖書にはこのように書かれています。

 『6:42 すべての人が食べて満腹した。6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。』

 本当に不思議なことに、パンが増えたのでしょう。パンくずなどで十二の籠がいっぱいになります。この奇跡を、このまま飲み込む方もいますが、何かを象徴しているとか考える人もいます。例えば、パンくずは、教えや救いを象徴しています。この後に出てくるシリア・フェニキアの女の物語で、

『7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」』 ですから、み言葉をたくさんいただいて、満足をしたと解釈することが可能です。また、群衆は初めから分け合えるほどの食事を携えていたと考える人もいます。しかし、「イエス様を信じている人」ならば、この奇跡を合理的な様に説明をするよりは、そのまま受け止めてもよいのだろうと思います。