Ⅰテサロニケ4:13-5:11

主と共に生きる

十字架の出来事の後、墓に安置されたイエスは、復活の朝まで何をしていたのか? このようなことを神学者達がいます。陰府へ降り立っていたと言う考え方が伝統的な考えで、死んだ者への救い(伝道)の働きをしていたというのです。その根拠はペトロの手紙第一にあります。

◆Ⅰペトロ3:18-93:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。』

◆Iペトロ4:5-6『4:5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。』

◆カトリック教会の受け止め

カトリック教会においては、西方教会に共通する、キリストの陰府降下についての「非神話化の傾向」があるそうです。 (非神話化:自然現象として説明が困難な伝承(奇蹟など)を、実際に起こったとは認めない考え方)

◆プロテスタントの受け止め

キリストの陰府降下を死の現実性・悲劇性を象徴するものとして「非神話化」する傾向は、既にルター、ツヴィングリ、カルヴァンにみられます

主と共に生きる

信仰をもって、亡くなった人々。信仰を持たずに亡くなった人々。そして、今生きている人。全ての人が主イエスと共に生きれるよう、神のラッパが鳴り響主の再臨が来る日まで、目を覚まして身を慎んでいましょう。 

とのパウロの考えの中には、明らかに、終末がすぐにでも来るとの前提があります。パウロは人々に信仰の火を消さないように励ましているのです。そして、信仰を持たないうちに死んでしまった人についても、その人たちが先に復活ると言っています。すべての人をイエス様が配慮してくださる。だから、そのためにイエス様は一度死なれたのだと、説明します。ところが、最後にパウロは矛盾したことを言います。

目覚めていなさいと言いながら、「信仰に眠っていてもイエス様の救いに与れる」と言うのです。
信仰を持たずに眠ってしまっても、再臨の時のために、イエス様は一度陰府に下って目覚めている人とおなじように主と共に生き」られる様、イエス様は一度陰府に下っ伝道をされたと恵みの出来事の事です。

パウロはこの様に言いました。
Ⅰテサロニケ『5:10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。』