ペトロの手紙2:1-10

様の計画

 2022年 515日 主日礼拝 

『神様の計画

聖書 ペトロの手紙一2:1-10 

今日は、ペトロの手紙一からお話をします。この手紙を書いたペトロは、イエス様の12弟子であり、後に初代ローマ法王になったと言われているペトロです。今日の箇所は、旧約聖書の引用が多いので、まずその出所を確認した上で読みとって行きたいと思います。

「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」これは、イザヤ書からの引用です。

イザヤ『28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』

まず、かなめ石ですが、この訳は勘違いだろうと思われます。この部分は、元になっているイザヤ書でも、建物の四隅におかれる基礎石のことを指して、隅の石とか隅の親石と呼んでいます。とは言いながら、日本では隅の石などという言葉は通じませんから、すなおに英語でコーナーストーンと呼んだ方が解りやすいと思います。一方で、要(かなめ)石という言葉はあります。全然別の用途の石でありまして、石橋等のアーチの頂点に打ち込む石のことを要石、とか くさび石と呼びます。(英語ではキーストーン)原語では貴重な(ἔντιμον)隅(石とは書いていません)とありますので、ほかの聖書の箇所に合わせて隅の親石とか、そのまま基礎の隅の部分と訳せばよかったと思います。貴重な石だから要石と訳されたのだと思われますが、要石は、全く用途が違いますので、正しくは、神様はこういわれたのです。

「堅く据えられて建物を支えてきた実績のある基礎から、コーナ部分を一つ持ってきてエルサレムに据える。信ずる者は慌てることはない。」

 

 その石とは、イエス様のことです。そのイエス様を信じる者は、イエス様が来られるときに裁かれることはないので、あわてることがない。これは、イエス様の再臨の時にあわせた預言であります。 

次に、「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」ですが、詩編から引用されています。

詩編『118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。』が元の詩(うた)です。イスラエルの国を「家」に例えていて、イスラエルの国の指導者たちが、イエス様を捨てること、そしてイエス様がイスラエルの国の基礎となる事を預言したものです。

そして、最後に、「つまずきの石、/妨げの岩」 これはもともと神様に従わない民にイザヤが預言した裁きのことを指します。

イザヤ『8:14 主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。』

歴史を見ると、聖所、北イスラエル王国、ユダ王国およびエルサレムは、この預言通りに滅亡してしまいました。ここで使われている主ですが、元々が「ヤハウェ」と言う言葉が使われています。これは、神様の名前です。ですので、つまずきの石、妨げの岩とは、神様のことを指していることがわかります。

 

 さて、ペテロは、小アジア地区の教会に向けてこの手紙を書きました。小アジアの教会には、異邦人の信徒がたくさんいましたが、異邦人には旧約聖書の知識はほぼありません。ペトロは、旧約聖書で預言されていたことが、イエス様によって成就されていることを異邦人に説明するために、旧約聖書を引用しながら丁寧に書いたと思われます。

 今日の箇所は、1章の「主の言葉は永遠に変わることがない」ことをうけて、「だから」で始まります。その引き取った、元の文を読みます。週報の今週の聖句にのせた箇所です。

『1:24~「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」』

これも、イザヤ書(40:7-8)から来ています。

『「主の言葉は永遠に変わることがない」だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい。』とペトロは言っているわけです。華やかに見えている人でも、いつかは枯れてしまいます。人は、みな永遠ではないのです。しかし、イエス様のみ言葉は永遠に残ります。そして、イエス様の言葉を慕い求めるならば、成長をもたらして、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口から離れるようになるのです。そうして、私たちはイエス様の言葉によって、救われるのです。

 イエス様が、地上におられた間に、多くの人々がイエス様から恵をいただきました。病や心を癒し、そして弱いものに寄り添ってくださいました。私たちは、聖書を通してそのことを知っています。そして、礼拝でみ言葉を聞くときに、そして証を聞くときに、そして信徒の交わりの中に、イエス様の恵みを頂きます。この恵み深いイエス様とともに歩むことは、私たち自身がイエス様のように、神様によって選ばれた教会の基礎石となることに結びつきます。イエス様は、この地上にいた時、多くの人々に見捨てられましたが、神様が教会の礎として選ばれた、尊い、生きた石なのです。その石の上に霊の家である教会が作り上げられます。教会では、すべての人が祭司です。だれでも神様を礼拝賛美し、祈り、そして神様の御用のために奉仕と献金をしています。これらは、私たちが私たちの生活の一部を犠牲にして、イエス様の名前によって捧げるものです。つまり、神様に喜ばれる霊的ないけにえなのだと言えます。

ここで、ペトロは旧約聖書から3か所を引用します。

『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』

『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった』

『主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。』

 まず、エルサレムにイエス様を送りだし、「信じる者は救われる」との予告をします。そのイエス様は、国を治める人々に見捨てられたましたが、今は教会の礎となっています。一方で、イエス様を信じない者にとっては、イエス様はつまずきでしかなく、そのため国は滅び、民はわなで捕らえられる。その悲劇がやってくると予告しています。

 ペトロは、「この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないもの」と言います。この石とは、神様がエルサレムの地に送って下さったイエス様のことです。イエス様は、信じる者にとっては かけがえのないものですが、信じない者にとっては ただの石ころです。家を建てる石工が、役に立たないと判断して捨てた石が、よりによってその家を支える礎に使われている。そのようにプロの目は、見えるのです。つまり、家造りのプロから見ると、そんな石ころは何の役に立つはずがないというわけです。そして、イエス様の言葉は、イエス様を信じない者にとっては、つまずいたり、道を遮ったりする いらない邪魔な石でしかありません。もちろん、イエス様を信じるならばつまずかないのですが、イエス様を信じないからつまずくのです。それでも、ペトロは信徒に向けて、「信じるよう努力しなさい」とは教えませんでした。ペトロは、「個人の努力で信じるようになる」のではなくて、「神様の計画によって、信仰が与えられる」と考えていたからです。この考えは、特に、異邦人のキリスト教徒に向けたメッセージであります。ユダヤ人だけが選ばれた民なのではなく、今イエス様を信じるようになった異邦人も選ばれた民であり、ダビデ王につながる祭司であり、神の国の聖なる国民であり、神の民だと言う事です。イエス様が、この地上に送られ、十字架と復活の出来事を通して、私たちの罪が贖われ永遠の命を頂くようになったのです。そして、ユダヤ人だけではなく、世界中の人々が神の国に招かれるようになったのです。ですから今まで暗闇にいた異邦人は、今ここで、光の中に招かれているのです。そして、異邦人にも、イエス様の福音を伝える働きが与えられてます。このようにして、神様のご計画で、教会に集まった異邦人たちは、神様のご意思で招かれたのです。

 そして、こう語ります。

『2:10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」』

この出所も旧約聖書の預言(ホセア記1:9,2:23)です。

 この預言も、新約聖書の時代の異邦人に対するメッセージだったことがわかります。当時の小アジア地方では、オリンポスの神々への信仰が盛んだったのですが、そこでユダヤ教の一派のキリスト教を信じるようになった人々がいました。その人々に向けて、ペトロは信仰生活を維持し、守っていくようにこの手紙を書いて教えました。『生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。』と語りかける今日の聖書の箇所は、イエス様を信じて生まれ代ったばかりの異邦人への励ましです。もともとユダヤ教では、モーセの時代から、民族的にユダヤ人でない人でもユダヤ教徒として受け入れていました。ただし、神を信じること、ユダヤの習慣を守ること、つまり、ユダヤ人のようになる事が条件でした。ですから、小アジアにあった教会では、ユダヤ人の習慣を守らない異邦人たちを、「神を畏れるもの」として区別していたようです。「ユダヤ人は神様に選ばれた民」と自覚しているユダヤ民族ですから、異邦人はユダヤ人化することで、「選ばれた民」となると考えていたのです。そういうわけで、一緒に神様を礼拝しているユダヤ人と異邦人の間には、明らかな区別がありました。さぞかし、ユダヤ人化していない異邦人は、肩身が狭く、また伝道に加わることも難しかったことが想像されます。そういう、異邦人に向けて、ペトロが励ましを込めてお勧めを送ったのです。

 また、ペトロは教会にあっては、「異邦人も選ばれた民であり、王の系統を引く祭司であり、神の国の聖なる国民であり、神の民だ」と宣言します。そして、すべてが神様のご計画だと言います。神様は、誰をも礼拝に招いておられます。そして、神様を信じる者はすべて、選ばれた民であり、王の系統を引く祭司であり、神の国の聖なる国民であり、神の民なのです。すべての信徒は、同じ資格を持っていると言えます。なにしろ、信徒全員が祭司です。ですから、信徒も、み言葉を語ることが許される事になります。

 バプテストでは、このような考えを万人祭司と呼びますが、このペトロの考えを、少しだけ強く受け継いでいると言えます。ですから、バプテストには牧師の資格や身分などはありません。牧師は、牧師の仕事はしますが、資格は信徒の一人です。そして牧師以外の信徒であっても、宣教や礼典を受け持つこともできます。多くの信徒は、それぞれが出来る範囲で、伝道の働きをします。伝道は、直接的な働きでも、間接的な働きでも神様の計画があってのことです。私たちには、その神様の招かれた人々と直接・間接にかかわるという伝道の働きが与えられています。そして、祈ると言う働きはいつでも求められています。伝道のために祈ってください。神様の招きと、仲間みんなの働きを覚えて祈りましょう。すべては、神様が計画されているからです。私たちも今日の聖書の宛先である「異邦人の信徒」の一人です。みことばを、乳飲み子のように受け止めてください。そして、神様のご計画に従って、神様から与えられる働きを担ってまいりましょう。