アブラハムからヤコブまでの旅経路(ハランはこんなに遠い)
Penuelを見つけましょう
ヤボクの渡しは、ハランからの帰路ペヌエルに着く前あたりにあるヨルダン川の支流ヤボク川にあります。ヤコブが家族を渡らせたとありますので、彼はヤボクの浅瀬を行ったり来たりします。そのうちに迷いがでたのでしょう。家族をみんな渡した後、ヤコブは渡しの手前に一人残ります。つまり、行くべきか戻るべきかを悩んでいたのです。それは、兄エサウに対する恐れからでした。そもそも、ヤコブは愛する者を後ろにして旅を始めています。そして渡しをとおるとき、ついに自分だけ戻ったのです。それだけ悩んだのでしょう。
1.何者かが格闘
ヤコブが独りになってから神様が登場したことから、ヤコブと謎の人物の格闘は、神様への祈りと解釈されてきました。格闘は祈りのことだという理解は、謎の人物が神様であることを暗示・明示しています(29・31節)。祈りは神と共に格闘することであるということから、ヤコブの祈りに対する神様の答えを知ることになります。一対一の組み打ちで、勝つか負けるかの格闘です。その中でヤコブがこだわったのは、神様の顔を見ること、神様の名を知ること、神様から祝福を受けることでした。
ヤコブの祈りは、「神様、顔を私に向けてください、そして命を吹き込んでください。名前を教えてください。そして、私を祝福してください」でした。これから家族を引き連れて生きようと願いが現れます。結果として、ヤコブは神様の顔を見ましたし、祝福も受けました。しかし、名前は尋ねたものの教えてくれませんでした。ただ、ヤコブは自分が格闘した相手が神様だということがわかっていますから、そういう意味では、「名前? あなたの思っているとおりだ。聞くことないだろ?」と言った神様の反応でした。
『32:31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。』
「神様の顔を見ると死ぬ」ということが、信じられていたようです。つまりは、「ここで神様の顔を見て死ななかったのだから、明日エサウに会っても死なない」と確信を持ったと言えます。ヤコブは神に挑戦し、夜の明けるまで粘り、夜明けの光で神の顔を見て、神様の意思を変えようとしました。一晩中粘って、祈り、神様を説得したのです。「自分も、家族も救ってください」と。
2.太腿の関節が・・・
『32:26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。』。
「勝てない」は意訳です。直訳は「できない」。「できない」とされる行為が何かが問題です。「神様は、ヤコブの恐れを取り除くことが出来ない、とみた」。神様は負けると思ったのではなく、まだまだ祈りが続く とみて、この格闘を終えようとしました。そして、神様は股関節を打って、脱臼させます。
激痛がヤコブを襲います。「長い祈りに対する神様の仕打ちがこれか?」と、ヤコブは激怒するのです。人生の最も厳しい局面で、神様は顔を見せず、怪我をさせて、そして逃げようとするのか。こうなれば神様を離すものか・・・・。
『32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」』
それでも手を離さないヤコブです。徐々に夜が明けて、神様の顔が照らされ、ヤコブは神様の顔を見ます。次の会話の内容から、神様は顔と顔をあわせて話したのだと思われます。
『32:28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、32:29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」』
もう神様の顔を見たのだから、また、祝福してくれそうだから・・・。ここで格闘はおしまいです。
「イスラエル」という名前は、「神はたたかう」という意味です。「あなたと、子孫たちと共に、神様は戦い続ける」との、イスラエル民族に対する約束であります。