2025年 7月13日 主日礼拝
「あなたの信仰があなたを救った」
聖書 ルカ7:36-50
今日は、ルカによる福音書からイエス様に香油を注いだ女性の物語です。この物語は、ほかの3つの福音書にも並行記事がありますが、場所とその女の人は誰か?という点で違っています。そんなことから、イエス様に油を注いだ出来事は、複数あったのかもしれません。
さて、油を注ぐという行為ですが、イスラエルでは伝統的に王様の任命式で行われました。そして、救い主メシアと言う言葉は、油を注がれた者と言う言葉そのものなわけです。ですから四福音書かれている香油を注ぐ女性の物語は、イエス様こそが救い主メシアだ と信じる女性たちの証しなのです。
この出来事は、マタイ、マルコ、ヨハネによると、エルサレムのすぐそばにあるベタニヤ村で起こりました。それが、ルカでは、前後の記事から見てもどこで起こったことかは読み取れません。また、その女の人のことについても、マタイとマルコは一人の女とだけ書かれています。ルカでは、それが『一人の罪深い女』とだけ説明が加えられています。一方で、ヨハネだけは、マリアと言う固有名詞が出てきます。マリア(正しくはマリアムメ)と言う名前は、ごく一般的な名前なので、誰のことなのかは、わかりません。新約聖書に出てくるマリアは、たくさんいるからです。(イエス様の母マリア、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、マルタの妹のマリア、クロパの妻マリア、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリア、あなた方のために苦労したマリア。7人もいるんです。)
この物語で大事なのは、普通の一般女性が、イエス様をメシアだと証しをしたことです。かつて預言者が神様の名によって、油を注いで王様を任命したように、イエス様に油を注いだ。つまり、イエス様がメシアであるとの信仰を一人の女性が行動で示した その証しの物語として注目したいのです。
さて、ある時イエス様は、ファリサイ派のシモンの家に招かれました。この頃、イエス様は多くのファリサイ派の人々と論争をしていましたから、この招きは普段とは様子が違うと思われます。とは言いながら、イエス様がファリサイ派の人々全部と対決をしていたわけではありません。ファリサイ派の人々の中にも、イエス様を信じる人がいたからです。この家の主人シモンはファリサイ派でありながらも、イエス様の噂を聞き、あるいはその奇跡や福音の言葉を耳にして、興味を持っていたのでしょう。
宴会のさなか、シモンの家に、ひとりの女の人が入ってきました。イエス様がそこいる事を知って、香油の入った壺を持って入ってきたのです。この香油ですが、たいへん高価な物です。ですから、この香油を使う意図をもってイエス様を訪ねたことになります。この時点で彼女のイエス様への信仰がうかがわれます。 彼女は、罪深い女でした。一方で、ファリサイ派の人々は、罪人には近づきません。それなのにです。彼女は、ファリサイ派の人であるシモンの家に入ってきたのです。よほどの覚悟だったのでしょう。 罪深い女が、律法を厳格に守っているファリサイ派の人の家に入る。それは、あまりにも場違いなのです。シモンの家の中は騒然となりました。そして、罪深い女を追い出したくても、追い出せません。みな、彼女にかかわって汚れることを恐れたのです。だから、彼女を止める事が、出来ませんでした。結果として、汚れることを恐れたファリサイ派の人々は、この女の人を見守るだけでした。
ところで、この罪深い女のやったことも普通ではありません。
『香油の入った石膏の壺を持って来て、7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。』
彼女は一体、何をしているのでしょうか? 彼女の意図は書かれていないので、推測してみましょう。当時の習慣では、来客があると足を洗ってあげますから、それ自体は普通です。イエス様を招いたシモンが、イエス様の足を洗わなかったので、家の人が代わりに洗うのは、おかしなことではないのです。しかし、この女は突然入って来てのことですし、一方的な行動でした。まず、イエス様は席についています。この時代は、寝そべって食事をしました。低いテーブルに頭を向けて、左脇腹を下にして横になります。用意されている席は、テーブルを中心に囲んでいますから、当然、この女の人はイエス様の足元からしか近づけませんし、彼女の手が最初に届くのは、足です。イエス様の足のそばで、彼女は泣きました。感激するほど、イエス様に会いたかったのでしょう。
イエス様に会えば、何かが変わると期待していたのかもしれません。あるいは、自分を受け入れてほしいと、願っていたのでしょう。また、何か打ち明けたい事、訴えたい事もあったのかもしれません。しかし彼女は、イエス様の席まで来ると、ただただ涙があふれてきたのです。彼女はその時、イエス様に受け入れられていました・・・ それに気が付いたのです。
そこにあふれたのは、彼女の涙でした。イエス様の無条件の愛で受け入れられたことを知った涙。それは、罪深いこの女の人が自分の罪を思い、悲しむ悔い改めの涙でもあります。その涙は頬を伝わって落ち、イエス様の足を濡らしました。・・・
すると今度は、自分の髪の毛を使って 涙で濡れたイエス様の両足をぬぐい、口づけをして、持っていた高価な香油をその両足に塗ったのです。
それは、この時彼女ができる、イエス様への最大の賛美であり、無条件の愛がそうさせたのでした。彼女が持っている一番いいものを捧げる。それがイエス様への信仰を表すことであり、イエス様を賛美し、礼拝する事なのです。
この家の主であるファリサイ派のシモンは、この思いもよらない景色を眺めていました。しかしやがて、シモンの心にはひとつの疑いが沸いてきたのです。
『「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。』
ファリサイ派の人々は、罪人とは付き合うことがありません。足といえども、触らせてはいけないのです。なぜならば、汚れてしまうし、汚れると大変だからです。彼らは一度汚れると、清めの儀式のために7日間は外にも出られないのです。(レビ14:8)シモンの常識からいうと、その女の人を避けて、手や体を触れさせてはいけないのです。シモンから見ると、「イエス様は汚れた」のに彼女の行動を平然として許しているように見えたわけです。だから、このときシモンはイエス様を疑いました。「この人はメシアはない」 と。
イエス様を偽預言者と思いはじめたシモンに、イエス様は気付きました。
そして、シモンに声をかけます。
『7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。』
そこでイエス様は、たとえでシモンに質問をします。
『7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」』
500デナリは400万円、50デナリは40万円くらいです。どちらにしても多額なお金ですから、帳消しになるならうれしいです。借金を無条件で赦してもらった二人は、どれほど 金貸しに感謝したでしょうか?。そして、金貸しの無条件の愛にどのように答えるでしょうか? ここで使われている愛は、無条件の愛であるアガペーです。うれしいだけだったら、フィリア(友人への愛)を使うわけですが、ここではアガペー。何の見返りも期待しない愛であります。金貸しの愛も、金を借りていたほうの愛も、一方的で何の見返りも求めない愛なのです。もちろん、額が多いほうが、無条件で帳消しにした金貸の愛も、帳消しにしてもらった金貸しに対する愛も大きかっただろうと言えるでしょう。
イエス様のたとえのポイントはここにあります。
「イエス様から、より多くを赦された人は、その多くの愛を受けとめて、より多く感謝します。そして、より多くを赦された人は、その喜びによって、無条件にイエス様を受け入れます。それこそが、イエス様を愛し、信じることなのです。」
食事の席に入ってきたこの女の人は、イエス様の足を涙で洗い、髪の毛でぬぐい、香油を足につけてもてなしました。それは罪深いと自覚している彼女を、イエス様は受け入れ、されるがままにしていたことを示します。彼女がイエス様に近寄ったときに、彼女はイエス様に赦されていることに気づいて、感謝でいっぱいになったのです。彼女にとって、イエス様のそばに居れるだけで喜びでした。そして、涙を流しながらも、持ってきた高価な香油をイエス様の足に注いで塗ります。彼女は、自分ができる限りのことで、イエス様から頂いた赦しと愛に応えたのです。この彼女の応答も、無条件の愛でありました。
ファリサイ派のシモンは、律法を守っている敬虔な人でした。しかし、しょせんファリサイ派の人も罪人です。この罪深いと自覚している女の人と比べると、罪はちょっとばかり少ないかもしれません。だけど、彼女は、罪を自覚し、イエス様の前に出て、イエス様に赦されました。そして彼女は、涙を流しながら、イエス様の赦しを受け入れたのです。・・ところがシモンは、自分の罪を自覚していないので、この女を裁くべきと思ったのでしょう。この女をイエス様が赦すことをシモンは疑いました。シモンも同じ罪人なのにです・・・。
私たちも、ファリサイ派のシモンの様に、自分の罪をごくごく小さく見積もっていないでしょうか? それでは、イエス様の赦しを感じ取ることは難しいです。しかし、罪深いことを自覚しているほど、イエス様の赦しへの感謝と喜びも、大きい のです。
神様はイエス様の命と引き換えに、私たちの罪を贖って下さいました。この大きな恵みに気づいて、一方的に、そして無条件に愛してくださっている神様に感謝いたしましょう。イエス様は、いつも私たちに寄り添ってくださっています。このときもイエス様は「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と声をかけました。そのイエス様を信じて、イエス様に向かって、この罪深い私を受け入れてください。このように祈ってまいりましょう。