2025年 7月20日 主日礼拝
「婦人たちの働き」
聖書 ルカ8:1-3
先週は、ルカによる福音書からイエス様に香油を注いだ女性の物語から、お話しました。今日は、その続きの箇所です。続きなものですから、ここに出てくるマグダラのマリアが、イエス様に油を注いだ罪深い女であったと言う人がいます。その解釈には無理があります。
ルカ『7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。』
あの罪深い女は、イエス様が言われたように、去ったはずです。それでも、もしイエス様に同行していたならば、たった3節後の記事ですから、何も書かれていないのは不自然です。そもそも、マグダラのマリアが娼婦であったなどと言われる根拠は、その不自然な解釈によっています。しかも、その解釈はカトリック教会内の特定の人が言いだしただけのものです。ですから、そのような先入観でマグダラのマリアを見てはいけません。むしろ、マグダラのマリアは、イエス様の弟子で一番優秀だったこと、およびイエス様に一番近かったことを憶えてください。・・・ さて、聖書には、旧約聖書39巻、新約聖書27巻があります。そのほかに続編とか外典や偽典などがあります。私たちバプテストでは、聖書と言えば、旧約聖書と新約聖書だけをさします。ところが宗派によっては、続編や外典までも聖書の範囲として認識しています。イエス様の十字架と復活があった後、いろいろな教理解釈をもって、様々な文書が書かれました。そのすべては、聖典とするかどうかの判断を経て、旧約聖書と新約聖書となっています。聖書に含まれなかった文書に、たとえば、マグダラのマリアの福音書とか、トマスによる福音書や、あの裏切り者ユダの書いたとされる福音書があります。これらには、教理的に混乱を起こしそうな記事がありますので、聖書としては選ばれなかったのでしょう。ただ、当時の教えが多彩であったことや、福音書の書かれた背景などがわかるので、貴重な資料ではあります。その多彩な教えの中で、ペトロやパウロ、そしてヨハネ等の使徒たちの教えは、他の教えとの間で切磋琢磨されました。その過程で生き残った教えが、今の聖書なわけです。
新約聖書の最初にあるマタイによる福音書ですが、使徒ペトロの一派が残した福音書です。この福音書の特徴に、ペトロの権威を持ち上げているところです。だからでしょうか? 最も優秀な弟子であったマグダラのマリアが出てくるのは、復活の朝の記事だけです。ルカによる福音書にあるような今日の記事「女性たちの働き」と「七つの悪霊に取りつかれていた」とのマグダラのマリアにかかわる記事は、マタイの福音書にはありません。このようにマグダラのマリアは、ペトロ一派から貶められたのです。
ところで、福音書に登場する男性の弟子たちは、情けないことばかりしていた印象が残ります。それに対し、女性の弟子は優秀だったのだろうと思われます。女性への教育が平等でなかったこの時代に、彼女らは神様のことを学ぶ意欲を持って、イエス様に従い、学びました。そしてイエス様のように人々に寄り添ったのだ と私は思います。
有名な神学者ユルゲン・モルトマン(非神話化を提唱した人)の娘である、エリザベート・モルトマン=ヴィンデルは、著書「イエスをめぐる女性たち」のなかでこんなことを書いています。
「マリア・マグダレーナは指導者たる資質を持っていたし、ルカによれば富ももってきた(8:3)。ヨハンナと同様に彼女は、中間層的イエスに都会的なものを持ち込んだ。ユダヤ婦人たちが-初めて大家族の庇護なしで-彼女に服従した。彼女は有能で説得力があった。弁が立ち、権威となるのはむずかしくなかった。後期の福音書からは、弟子たち、とくにペテロにとってつねにしゃくの種だったこの確固たる優越性が感じ取られる。p116」
これを読むと、マグダラのマリアが、いかにイエス様の弟子たちの中で重要な存在であったかがわかります。使徒言行録には、聖霊が降った後に、弟子たちが集団生活を始めました その様子を記した記事があります。
使徒『2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。』
このときと同じように、ガリラヤ伝道をしていたイエス様は、共同生活をしていました。それはたぶん、マグダラのマリアが中心になって、弟子たちの共同生活を支えた結果です。その共同生活には、多くの女性たちも加わりました。すでに、このとき女性たちへの伝道が実を結んでいたのです。
「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」はどうでしょう。このヘロデはガリラヤ地方の領主であり、ヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスです。領主の「家令」とは、一国の大臣に匹敵します。ですから、結構な富をもっていたのだと思われますし、ヨハナ自身の生まれも貴族だったと思われます。そんなわけで、イエス様の弟子たちがたとえ100人いたとしても、食べさせていくことができたのだと思われます。イエス様の弟子たちには、ローマに反発している人がいますが、彼女の夫クザは、ヘロデ党なはずです。ヘロデ党とは、領主ヘロデの繁栄を願う、ローマに取り入っている勢力であります。ですから、エルサレムの変革を望まない今の体制側なので、ヨハナは夫クザに逆らっていることになります。ヨハナは夫を捨ててイエス様の弟子一行に加わって、共同生活を支えました。またルカによる福音書だけの記載ですが、ヨハナは十字架と復活のとき、その場所にいた弟子だったのです(24:9)。ヨハナは、イエス様の弟子となってから一貫して夫ではなくイエス様を選び取ったということですから、その点も評価されます。彼女は「父の家」「夫の家」を棄てて「神の国」への旅を始めたのです。
スサンナについては聖書の中には、ここにしか登場しないので、残念ながら人物像を語ることができません。しかし名前がここに挙げられるということは、当時の信徒にとって、スサンナがよく知られた弟子、つまり後の教会の指導者だったとも思われます。十二弟子の影で、名前さえ残らなかった女性の弟子たち。彼女らを 私たちは憶え続けなければなりません。また、名前も福音書に出て来ないけれども、イエス様と共に福音伝道と人々の癒しのために、各地を旅した多くの女性がいたことも憶えましょう。
さて、イエス様がガリラヤの町や村を巡って宣教する際、12 人の弟子たちは
もとより女性たちも一緒でありました。小さな町や村をイエス様と弟子たちが百人弱の集団となって巡ったのです。大都市ならまだしも、村里では目立つだけではなく、食事や宿泊も大変だったと思われます。その光景を思い描いてみましょう。イエス様は、「神の国が近づいた」と福音を人々に伝えて、町や村を巡りました。そして、男女を問わず、イエス様を慕う人々や、彼に癒された人々や、彼に期待している人々が従ってきます。さらに、イエス様のことを心よからず思うファリサイ派の人々も、一行の後を追ったと思われます。
ルカは、ここで、多くの女性が一緒であったと記した上で、特に3名の女性の名前を挙げています。先ほどは、この3人がイエス様の群れを守るうえで、大切な役割を果たしたことをお話ししました。もう一つの大切な役割が、イエス様の十字架と復活を証しすることでした。その一人はマグダラのマリア。彼女はイエス様に「七つの悪霊を追い出し」てもらったあと、この群れに従ってきました。(マルコ16:9、ルカ8:2)マグダラのマリアは、ほかの女性たちとともに、イエスの十字架を見守り(マルコ15:40)、キリスト復活の最初の証人となったと伝えられます(マルコ16:1-8、ルカ24:10)。これらの記事のように、マグダラのマリアは常に女性たちの最初に挙げられます。また、ヨハネによる福音書では、マグダラのマリアが「空っぽの墓」に最初に行った人であり、最初に復活のキリストに語りかけられた弟子として伝えています。(ヨハネ20:1、16)。このような福音書の記事に基づき、ギリシャ正教会、カトリック教会、聖公会などでは、マグダラのマリアを「聖人」としているのです。
その次に、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」という女性が挙げられています。ヘロデの大臣の妻が、イエス様の弟子となり、そして集団生活を支え、さらにイエス様の十字架の死と復活の証人となった。そのようにルカは記しています。(ルカ23:55、24:10) それにしても、ヨハナが、イエス様に従うために家を出てしまったときに、夫の許可があったとは思えません。彼女は、かなりのリスクを覚悟の上で、このような行動を取ったのだと言えます。これらのイエス様に従った女性たちが、既婚であれ、未婚であれ、家を出て、イエス様に従う、ということは、当時のユダヤ社会の常識においては大問題でした。だから、元の生活に戻ることは許されないでしょう。・・それだけ勇気のいる行動だと言うことです。そのためでしょうか?、この「多くの女性たちがイエス様に従っていた」との記事は史実ではない、と考える研究者もいるわけです。しかし、イエス様の十字架を見届けたのは女性たちであり、キリストの復活の最初の証人もまた女性たちであった(マコ15:40-41、16:1以下。ルカでは23:19、23:55、24:1以下)のです。このことから見て、イエス様に最後まで従がっていこうとたのは女性の弟子たちだった、としか考えられないのです。
さて、多くの女性がイエス様の教えに従って、町や、村を巡ったとすれば、それは当時、見慣れない光景だったと言えます。そのころの、一般女性は聖書を学ぶことはありません。しかし、イエス様は、男女の分け隔てをしませんでした。女性たちも弟子として受け入れたのです。ですから、女性を縛りつけていた当時の社会習慣や家庭からの解放と言う意味でも、女性たちはイエス様の教えと、その行動に希望をもったのだと思います。イエス様への信仰に加えて、女性たちが抱いていた希望も、この勇気ある行動を後押ししたのかもしれません。そして、女性たちは、特にイエス様の十字架と復活に立ち合いそして、証言をしました。キリスト教にとって最も重要な役割を担ったのです。そういう意味でも、イエス様を知らないと三度も言ったペトロに代表される男性の弟子たちと、イエス様の十字架を見守る女性たちとはとても対照的でした。
このように、女性たちはイエス様に最後まで従っていました。ルカの今日の記事は、彼女たちの信仰を表すものです。女性たちは、イエス様の十字架と復活に立ち会っただけでなく、ガリラヤからずっとイエス様につき従い、その教えに耳を傾けていたのです。そこに、男性中心であったユダヤの伝統を揺るがすような、イエス様の姿勢が見えます。 後に、パウロは言いました。
ガラテヤ『3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。』
このようにして、私たちが今ここで、分け隔てなくみ言葉に与っていることに感謝しましょう。その証人こそが、聖書に出てくる女性の弟子たちなのです。