1.十字架につけられる
木曜日の日没から、ユダヤでは金曜日の安息日が始まります。イエス様は、二階の広間で十二人の弟子たちと最後の晩餐と呼ばれる、過ぎ越しの食事をしました。(注:一日早い木曜日)この食事の後、イエス様はエルサレム郊外のゲッセマネの園で祈ります。そこで、イエス様は祭司長、律法学者、長老たちが遣わした群衆や、大祭司の手下に捕らえられ、連れて行かれました。(この時の大祭司はアンナスですが、過去に大祭司だったカイアファも大祭司と呼ばれていたようです。最高法院は、日中にしか開かれませんから、カイアファの屋敷で、非公式な最高法院が開かれたようです。)
大祭司カイアファの屋敷で開かれた最高法院の裁判にイエス様はかけられます。祭司長たちと最高法院の全員は、イエス様を死刑にするために不利な証言を求めました。偽証人は何人も現れましたが、証拠は得られませんでした。
マタイ『最後に二人の者が来て、26:61 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。』とイエス様に不利な証言をします。また黙り続けていたイエス様に、大祭司は、「お前は神の子、メシアなのか」とイエス様に尋ねました。イエス様は「そうです(それはあなたの言ったことです)」と答えると、「神を冒涜する言葉を聞いた」と言って、一同に不敬罪による死刑を諮り、決議しました。
夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエス様を殺そうと相談し、イエス様を縛って引いて行き、ユダヤ州の総督のピラトに引き渡しました。最高法院には処刑を執行する権限がなかったからです。イエス様はピラトから尋問されました。罪は、自らユダヤ人の王を称した政治的反逆です。祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていたので、総督は、囚人バラバとイエス様とどちらを釈放してほしいのか、と民衆にたずねます。総督は、自らの判断は避け、民衆に判断させたのです。
ローマ兵に引きたてられながら、イエス様は重い十字架の横棒を背負わされ、よろめき、倒れながら、ヴィア・ドロローサ(苦難の道)を通って刑場に向かいます。約700メートルの曲がりくねった道です。シモンという名前のキレネ人(北アフリカの地中海に面した町出身)に出会ったので、イエスの十字架を担がせました。
イエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが掲げられました。「ユダヤ人の王」と主張したことが政治犯としての罪状となったのです。折から、イエス様と一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていました。 そこを通りかかった人々は、頭を振りながら(侮辱する仕草)、イエス様をののしって、「神殿を打倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と言いました。同じように、祭司長たちも、律法学者たちや長老たちと一緒に、イエス様を侮辱して、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」と言いました。一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしりました。
2.イエスの死
三時ごろ、イエス様は大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。イエス様が息を引き取った三時は、神殿において小羊を犠牲に捧げる時間です。 イエス様は再び大声で叫び、息を引き取りました。そのとき、大祭司だけが年に一度民の贖罪のために入ることが許されている、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。これは、神殿の存在とそこで執行される様々な儀式がイエス様の死によって意義を失ったこと、また祭司のみに許されていた特別の区域が消え、すべての人が神様に近づくことができるようになったことを象徴的に示しています。
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた兵士たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言い、認めました。 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていました。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々です。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア(ゼベダイの子らの母)がいました。男性の弟子たちは(ヨハネ19:26-27)、それぞれ逃げてしまいましたが、女性たちは最後までキリストに従い、立派に目撃証人としての役割を果たしたのです。