Ⅰコリント12:27-13:13 

 大いなるもの

2022年 9月 11日 主日礼拝 

大いなるもの

聖書 コリントの信徒への手紙 12:27-13:13           

今日は,コリントの信徒の手紙からみ言葉を取り次ぎます。このころコリントでは、教会が4つに割れようとしていました。いろいろな特徴のある指導者たちがいて、派閥ができてしまったのだと思われます。ですからパウロはこの手紙で、「教会は一体のものであって、そこから一部を切り離すならばキリストを切り分けることになる」と、忠告しました。

もともと、教会にいろいろな人が集まっていることは、神様の意思であります。神様は、教会の仕事のために、いろいろな人を立てられました。例えば、使徒、預言者、教師等の教会を指導する人たちです。使徒とは、イエス様の12弟子のことですが、パウロも使徒と自称していました。教会の最高職位を使徒とよぶのだそうです。例えば、カトリックの司教は、司教区の最高位でありまして、12弟子である使徒相当とされています。また預言者は、神様の霊によって預言をする能力を与えられた人です(1コリ 14:1)。そして教師。教師は、聖書を人々に教える役割を担います。律法学者も、そもそもが教師(ラビ)です。この預言者と教師のなかには、伝道者と牧師も含まれるわけです。次に、パウロが挙げたのが、奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者です。それぞれがもつ賜物をもちいて、教会に奉仕したわけです。これら奉仕者たち全てが、一番上の地位である使徒の働きを担おうとしたり、預言者になろうとしても、教会はうまく回りません。神様は、それぞれの持っている賜物を生かすように、働く場所を備えてくださいます。ですから、働く場所を得ることよりも、賜物を頂くようにイエス様に祈っていくことが大事です。必ず、その結果として良い働き場所が与えられるのです。

 パウロは、私たちが手に入れることのできる最高の賜物を頂くよう、コリントの教会の人々に勧めます。それは、愛です。パウロは、この愛こそが、教会を形成するために必要な最高の道だと教えたのです。

 

 『13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。』とパウロは言います。

異言(グロッサ:γλῶσσα)とは、新共同訳聖書の語句解説を見ますと、「一般の人には理解しにくい信仰表白の言葉。」とあります。異言を語るとは、聖霊の働きによって、人間の言葉でない言葉を使うことを指しています。パウロは、異言を否定しているわけではありませんが、その語っている者に愛がなければ、銅鑼(ドラ)やシンバルのようにやかましいだけだと言います。この箇所の愛は(アガペー:ἀγάπη)、神様の無条件な愛です。異言を語るときに、神様を愛して、そして神様にある兄弟姉妹を愛して、神様のために、そして兄弟姉妹やこの世の救いのために語る。そうでなければ、自身の自尊心をくすぐるためにために異言を語っているに過ぎないのです。自己中心的な愛では、やかましいだけで、だれの心にも響きません。ですから、異言を語る賜物は、神様の愛がともにあってこそ、善いものとなります。

 

 『13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。』とパウロは言います。

 預言や知識、信仰の賜物があっても、同じように、そこに神様への、そして人々への愛がなければ、結局「自分のためだけ」にその賜物を使うことになってしまいます。また、神様や人々のために、頂いた賜物を使わなければ、出し惜しみしていることになります。これでは、神様や人のためにならないですし、自身にも得られるものは少ないのです。


 『13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。』

また、形だけ献身的に装う。例えば、良いことをしようと財産や命を差し出したとしても、そこに愛がなければ、自身の名を上げようとした行為でしかありません。何も得られずに、財産と命を捨てることになってしまうのです。

 このように、財産であっても命であっても、それを神様を愛するがために、人々を愛するがために使うのでなければ、人々のためはおろか、自分自身のためにもならないのです。

 

 『13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。13:8 愛は決して滅びない。』

 

  ここでパウロは、神様の恵みについて、より明確に説明します。人の性質や行動を通して見ると、愛の本質がよくわかるからです。神様への愛、そして神様のための隣人への愛は、すべての人に対して忍耐強いとパウロは説明します。愛は、私たちの弱さ、無知、誤り、弱さ、世の子らの悪意や悪事をすべて受け入れます。それは、一時的なものではありません。また、悪を善で克服することを含めてすべてにおいて、愛は受け入れるのです。「愛は妬まない 」これについては、 他人(ひと)が持っている長所、賜物、あるいは恵みなどをむしろ喜び、その働きに参加することを導きます。このようにすれば、他人の長所も自分の長所となります。 「礼を失せず」とは、誰に対しても無礼でない事を指しますが、本来は「不快感を与えない事」ではありません。時間、場所、その他すべての状況に適した、相手を思いやる行動をとることを指します。「自分の利益を求めない」。利益とは、安心や心地よさや名誉、などの一時的で、天国に持っていけない宝を指します。神様の栄光と人々の魂の救いのための思いがあるならば、それは愛であり、その愛の力によれば、自分の利益は考えないのです。そして、魂の救いのために燃えていながらもうまく進まなくても、誰に対してもいらだちや、恨みは抱きません。

 

 「不義を喜ばず、真実を喜ぶ。」 愛の力は、神様を愛すること、そして人々を愛することを喜びます。愛の力によれば、必ず神様を愛し、人々を愛すようになるのです。そして、この愛は神様の愛です。真実の方である神様は真実を喜びます。そして、真実でないことは、すべて人の心から出てきます。私たちは、神様の愛によって支配されることを喜び、そして人の心から出る悪から私たち自身を守らなければなりません。神様の愛は、その賜物を私たちに与えてくださるのです。

「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」ですが、思い通りにならない時でも、愛があるならば、私たちは普段もっていない賜物が与えられます。その賜物によって、「決してあきらめることなしに、信仰を保ちながら、将来への希望を持って、どんな状況でも耐えられるのです。」

 そして、パウロは言います。『13:8 愛は決して滅びない。』と。なぜなら、愛は、私たち被造物には属さないのです。私たちが頂く預言や異言、そして知識は、賜った人の持ち物でしかありません。それに対して、「愛」と「神様に由来する恵み」は滅びない性質を持っているのです。パウロは、「預言、異言、知識」の賜物に対比させて、「信仰、希望、愛」を永遠に存在するものとして強調しました。

 

 信仰は、希望をもたらします。また、愛もその元の原動力は信仰です。パウロによると、神様に対するすべての人間の愛には、2つの段階があります。「神様が私たちに向けている愛を知って、それを信じる」ことと、「神様が始めに私たちを愛してくださったので、同じように私たちも神様を愛する」ことです。その最初の段階は、「キリストは私たちの罪のために死なれた」という事実を、神様の愛による結果として受け入れることです。そこから、信仰が始まって、キリストによる希望が与えられます。そして、私たちはキリストの言葉に答えようとの希望を持つことで、愛する者に服従する愛が生まれるのです。ですから、信仰、希望、愛、この三つは一体となって働いて、それは永遠に存続するのです。

 パウロは、「信仰はいつまでも残る」と言います。信仰の本質は、信頼の感情にあります。そして、絶対的な依存をし、幸せを確信することで、信仰は成り立っているのです。その神様への依存が教会生活の本質でありますから、神様との親子関係は、永遠に続くのです。

 また、「希望はいつまでも残る」については、信仰による神様との絶え間ないコミュニケーションの中に、絶え間ない私たちの進歩があるのです。進歩があるところには希望があるはずです。こうして、私たちの進歩の先を進んで、目に見えない栄光を私たちに伝え続けているのです。

 

 最後に「愛はいつまでも残る」。「愛とは神様と人間の永遠の関係である」と言いたいと思います。神様と人間の間の愛は、永遠に続くのです。なぜなら、信仰と希望は被造物(造られたもの)にのみ属します。一方で、信仰と希望から導かれる人間の愛は、神様の愛に似ています。そして愛は、永遠の存在である神様に属します。ですから、人間の愛は「信仰、希望、愛」のなかで、最も「大いなるもの」なのです。

 そして、どんなに優れた賜物があると思っていても、愛がなければそれを生かすことができません。逆に、どんなに賜物が無いと思っていても、神様を信じて、神様の愛を見習おうと祈るならば、神様の愛が私たちの中に入ってきます。そして、神様の愛によって、神様の働きを助ける賜物をいただくことができます。ですから、神様により頼んで、神様に依存して、そして神様に祈りましょう。そうすると必ず神様は、私たちに愛を届けてくださいます。そして、その愛に答えて、イエス様の福音を延べ伝えていきましょう。