フィリピ1:1-11

 祈りに支えられて

2021年 10月 10日 主日礼拝

祈りに支えられて

聖書 フィリピの信徒への手紙1:1-12


フィリピの街はマケドニアにあります。パウロはローマ(エフェソ説やカイザリア説もあります)の獄中から、フィリピの教会に手紙を書きました。フィリピはパウロが伝道をした場所です。フィリピの教会は、パウロにとって特別な思い入れのある教会でありました。と言うのは、フィリピはギリシアの北部マケドニア州にあり、パウロが第二次伝道旅行でイエス様の命令で訪れた街であります。使徒言行録にこう記されています。

 

『16:6 さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。16:7 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。16:8 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。16:9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。16:10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。』 

パウロは、第二次伝道旅行で、トルコのアジア州に伝道しようとしていましたが、聖霊がそれを禁じました。たぶん、ローマの行政の区分の違いで、ローマ皇帝の直営する州から、議会(元老院)の支配するアジア州への移動が困難だったのだと思われます。パウロは何とかして西側に移動するために、迂回することを考えたのだと思います。北に進路を進めてガラテア州を通っていまのコンスタンチノーブルの方を目指し、ビティニア州に入ろうとしました。しかし『イエス様の霊が、それを許さなかった』とありますので、前に進むことを断念します。その夜にパウロはマケドニア人の幻を見ました。パウロは、マケドニアの人々がイエス様のみ言葉を待ち望んでいることを知り、イエス様から「マケドニアで伝道する様に」との命令をうけたと確信しました。

パウロは、フィリピに着くとリディアという名前の婦人に出会い、その結果リディアは信仰を頂きました。彼女は紫布を売る商人で、家が豊かでしたからパウロの伝道に彼女の家を提供しました。こうして、フィリピでのパウロの伝道活動が始められたのでした。期間としては、さほど長くありませんが、教会を初めから作ったと言う意味で、思い出も深かったと思われます。しかし、ひょんなことから、この伝道活動は追い詰められてしまいます。「占いの霊に取りつかれている女奴隷」がいました。あまりにパウロにまとわりつくので、パウロはこの女奴隷に取りついた霊をイエス様の名によって追い出してしまったのです。すると、この女奴隷は占いが出来なくなってしまいました。それで、この女奴隷の占いで金儲けをしていた主人たちが、パウロとシラスを訴えて牢屋に入れてしまいました。その時、真夜中に地震があった機会に、その牢屋の看守とその家族が信仰を受け入れ、救われるという出来事がありました。このようにして、フィリピでの伝道は、聖霊に導かれていました。しかし、パウロは、この地を去らなければなりません。女奴隷の主人たちに狙われていたからです。そんな経緯がありますから、パウロにとってもなつかしい街と言うだけではなく、フィリピでの伝道活動に多くの思いがありました。

パウロは、沢山の手紙を書きましたが、神学の論文のような手紙もあれば、個別の教会に向けて、その問題についてアドバイスした手紙もあります。パウロの手紙を受け取った教会は、礼拝の説教の代わりに読み聞かせ、そして周辺の教会にも共有していきました。当時は、キリスト教の独自の聖典はありませんでしたので、パウロの手紙は貴重な文書でした。このパウロの働きによって、キリスト教の教えが文書化して広められていたのです。まだ、パウロの活躍したころは、福音書はなかったからです。ですから、弟子たちの話すイエス様の伝承やその語録にパウロの手紙を加えて礼拝で使っていたと考えられています。

さて、フィリピの信徒への手紙ですが、パウロの愛情と喜びが感じられる手紙だと思います。また、このあいさつ文や、記事の内容から見てもフィリピの教会とパウロとの特別な関係を感じると思います。

『1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。』

 

実際にパウロは、フィリピの教会からの資金援助を得ていました。 (二コリ11:9)(フィリピ4:15~16)(フィリピ4:18) フィリピの信徒への手紙に、パウロがフィリピの信徒たちの支援に対する感謝が読み取れる記事があります。

フィリピ『4:15 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。』

 

 パウロは、こうしてフィリピの信徒たちのパウロの働きの上への特別な祈りに支えられて、伝道活動を続けられたことを思い浮かべています。そして今も獄中にありながら支援を貰っていることから、フィリピの教会に直接感謝の手紙を書いたと言えます。

 

さてパウロは、ここで「いつも喜びをもって祈っています」と書きます。「喜びをもって」。フィリピの信徒への手紙には、喜びが16回も使われています。この手紙の特徴と言えます。しかも、パウロは獄中にいるのです。そのパウロが、獄中で書いたにもかかわらず、「喜び」がこれほど使われていることが、他の手紙との違いです。同じ獄中で書かれた書簡であるコロサイの信徒への手紙が5回、フィレモンへの手紙が2回、エフェソの信徒への手紙が2回と比べ、やはり文章の長さの割から言っても、多いということがわかるでしょう。

 

パウロはローマで身柄を拘束されていますから、自由に宣教することができたとは言え、伝道のために旅行することができない状況です。それでも、フィリピの人々は、またパウロがフィリピで伝道をする時を待ち望んで、いまだに献金を届けてくれているのです。さぞかし、パウロは励まされたことでしょう。今、獄中にいる現実。そして、ローマ皇帝に訴えましたので、パウロの運命はすでにただ事では済まないことが決まっています。しかし、こうして、ローマの獄中から各地の教会に手紙を出し、そして信徒たちの支援があったからこそ獄中での伝道が可能になっていたのです。パウロは、獄中での伝道を可能とした神様に感謝していました。またパウロは、イエス様のことを語りにフィリピを再び訪れる日が来ることを楽しみに、そしてイエス様に感謝し祈っていたのです。

 

5節を読むと、その喜びの理由のもう一つが書かれています。

フィリピ『1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。』

最初の日とは、パウロがフィリピで初めて出会った時のことです。その時から、フィリピの人々は信仰を守り続けていることをパウロは喜んでいます。たしかに、信仰生活をずっと続けるのは、簡単なことではありません。いろんな人とのかかわりがあって、優先しなければならない都合もあります。だんだんと教会での交わりから遠ざかる事もしばしばある事だと思います。信仰によって起こされることすべてが、自由に選ぶものであり、誰にも拘束されないからです。また、信仰の道を選ばなくても、食べていくことに直接困ることも普通は無いのです。ですから、飽きてしまったり、また別のものに熱中したりすると信仰を継続することが難しくなっていきます。また、信仰生活に多くを期待しすぎて、成果を出そうと焦りすぎたら、疲れてしまうこともあるでしょう。

信仰を続けることについて、現代の私たちの立場からお話をしましたが、福音という視点に立つと景色は違ってくると思います。イエス様は、私たちがどういう状態にあるかにもかかわらず、福音の業を続けられています。そしてイエス様は、いつでも私たちがイエス様の方に立ち返ることを待って、そしていつも導かれているのです。

パウロは、自身が喜んでいることについて、理由をこう言いました。

フィリピ『1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。』

つまり、人の努力のことを言っているのではなくて、イエス様によって成し遂げられるということです。私たちは一度福音に与ったのだから、イエス様の導きによってはじまった私たちの善い業、福音の業は、イエス様によって、必ず成し遂げられていきます。パウロは、その信仰を証ししているのです。

 パウロは、もう一度、自分がどんなにフィリピの信徒のことを思っているかを語ります。

フィリピ『1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。』

パウロは、この思いを何とかして、フィリピの信徒に伝えようとしていますが、言葉では説明し尽くせないようです。パウロは、囚われの身であって、祈る事しかできなくても、イエス様に祈ることでキリスト・イエスの愛の心で、フィリピの教会の人々とつながっているのです。

パウロは、フィリピの信徒たちのことを、このように祈っていました。

フィリピ『1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。』

 

パウロが置かれている困難な状況があるにもかかわらず、フィリピの人たちが信仰において成長することができるように、と祈るのです。

 

「知る力と見抜く力を身に着けて」という言葉と「本当に重要なことを見分けられるように」という言葉があるので何かフィリピの教会で問題が起こっていたのでしょう。「あなたがたの愛がますます豊かになり」とありますので、この機会にフィリピの信徒たちの愛がますます豊かになる事をパウロは望んでいます。そのためには、「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受ける」ことが、まず、第一に必要なことなのです。

そして、「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受ける」ことを通して「神の栄光と誉れとをたたえることができるように」なるのです。 

フィリピの信徒たちの信仰が育てられるようにと、パウロはとりなしの祈りをし続けていました。そして、フィリピの信徒たちもパウロのために祈り続けています。お互いに、執り成しの祈りをしあっているのです。こうした祈りのある所、それは教会そのものであります。イエス様の愛の中にあることを祈りあう共同体、とりなしをしあう共同体、それがイエス様に愛されていることを分かち合う教会なのだと思います。

私たちも、このパウロの手紙に学びながら、たがいに祈りあってイエス様の恵みに、そしてイエス様の愛に与るよう執り成しの祈りをしながら、私たちのこの教会を育ててまいりましょう。