2024年 12月 1日 主日礼拝
『わたしのいる所に』
聖書 ヨハネによる福音書7:25-34
今日からアドベントです。イエス様の誕生を待ち、静かに祈るときであります。静かにと言えば、イエス様は本当にひっそりと、この世に生まれました。この世の救い主は、あまりにもみすぼらしく、そして、静かに誕生したのです。
さて、今日の聖書は、ユダヤのお祭りの時の神殿での記事です。この頃イエス様は、一人の預言者として、そして教師として、各地を回っていました。そして、仮庵(かりいお)の祭りにあわせ、イエス様はエルサレムに上ります。(ヨハネ7:2)ユダヤの祭りは、主に3つあります。過ぎ越しの祭りが3、4月の満月の日、7週の祭り(ペンテコステ)が、5、6月の満月の日、そして、仮庵の祭りが10月頃の満月の日から1週間です。それぞれの祭りは、モーセの出エジプト記に起源があります。エジプトを脱出する決め手になった、初子を撃った災いがありました。この災いがユダヤ人の家を過ぎ越したことを記念したのが、過ぎ越しの祭りです。そして、エジプトのファラオを紅海で撃ち負かした50日目に、シナイ山に神様が降りました。それが7週の祭りの始まりです。そして今日の聖書の場面は、40年間砂漠をさまよいながら天幕に仮住まいしたことを記念した仮庵の祭りです。この一週間は、仮の小屋をたてて、そこで過ごすわけですが、現代でもベランダで過ごすなどして、キャンプ気分で守られているようです。そういう祭りの日に、イエス様はエルサレムに上ってきていました。
今日の聖書は、驚くべき言葉で始まります。このときすでに、ユダヤの指導者たちは、その敵意から、イエス様を捕えて殺そうと計画していました。それも、その計画は公然と行われています。普通ならば、命が狙われているとわかっていたら、びくびくとするのですが、イエス様は不思議なほどに落ち着いてエルサレムに居続けます。しかも、神殿で堂々と教えていたのです。(ヨハネ7:14)イエス様の話を聞いていたのは、祭りのために神殿に来た人たちだけではありません。祭司長たちやファリサイ派の人々といったユダヤ教の指導者たちもいました。彼らは、ユダヤの立法・司法・行政を司る最高法院の議員です。26節の「議員たち」とは、その最高法院の議員のことです。つまり、祭司長やファリサイ派の人からなる国家の最高権力者たちが直接出てきているのです。そして、彼らはイエス様の命を狙っていました。またその一方で、議員たちのその行動を、エルサレムの市民たちが注目しています。
『7:25 ~「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」』
この言葉は、エルサレムの人々たちから出たものです。彼らは、イエス様の命を狙っている議員たちが、おとなしくイエス様の教えを聞いているのを見て、このようにつぶやいているのです。「議員さんたちは、イエスを信じてはいけない。あの男はガリラヤの出身だから、救い主なんかじゃないぞ。」といったつぶやいたのでした。そもそも、ミカ書(5章2節)には、救い主であるメシアはユダヤ地方のベツレヘムから出ることが預言されています。ガリラヤ地方ではないのです。また、この当時のエルサレムの人の認識(ヨハネ7:41,42)では、ガリラヤのナザレからはメシアは出ないはずなのです。エルサレムの人々は、イエス様がガリラヤの村 ナザレの出身であることを知っていました。ただ、生まれたのはユダヤのベツレヘムだということは知らなかっただけです。また、当時は「メシア(救い主)はどこかに隠れていて、突然に姿を現す」と考えられていたようです。だから、「ナザレの大工の息子」と広く知られているこの人は、メシアであるわけがない言うわけです。
イエス様は、その言葉を耳にして、大声で言います。
『7:28 ~「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」』
人々は、「メシアがどこから来るか誰も知らない」そして「イエスはガリラヤ出身だ」と言う2つの情報から「イエスはメシアではない」と思いました。それに対してイエス様は、「ガリラヤ出身は確かだけど、神様のところから遣わされているのですよ。」と反論したのです。この言葉は同時に、「あなたがたは、わたしがどこから来たのか 知らない」という指摘でもあります。つまり、「あなた方が知らないところから来た わたしがメシアだ」という意味にも受け止められます。
この記事の少し前にも、イエス様は、このようなことを言っています。
ヨハネ『6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。』
これは、ガリラヤのカファルナウムでの発言でしたので、
(ヨハネ『6:42 ~「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」』と) 人々がつぶやいただけで済みました。しかし、今度はそうはいきません。今日の場面は、祭りでとてもたくさんの人々が集まっています。しかも祭司長やファリサイ派の人が直接聞いていたのです。彼らにとって「神様に遣わされて来た」との言葉は、イエス様ご自身が「神と等しい」との宣言したことになります。しかも、神殿の中での発言ですから、祭司長たちが黙っているわけがありません。祭司長たちとファリサイ派の人々は、神様への冒涜だとしてイエス様を捕えようとします。しかし、だれもイエス様に手をかける者はいませんでした。イエス様が群衆に囲まれていたので、祭司長たちとファリサイ派の人々は手を出せなかったのです。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は、下役(7:32)つまり神殿の護衛隊まで呼び出しましたが、イエス様に手をかける人はいませんでした。なぜ、それまでしてもイエス様は捕まらないのか?、と言いますと、『7:30 ~イエスの時はまだ来ていなかった~』からです。「イエスの時」とは、十字架の時のことです。その時が来るまで、神様は、祭司長たちやファリサイ派の人々の思うようにはさせません。神様は、ご自身の計画を進めるために、その時が来るまではイエス様に手をかけさせなかったのです。そして、救い主を求める群衆もイエス様を守ったのです。
『7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。』
群衆の中には、イエス様を信じる者が大勢いました。イエス様が示す多くのしるしを見て、そしてイエス様の教えを聞こうとしている人々です。そして、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」との言葉から、イエス様をメシアだと信じ、救いを求めていることがわかります。
この出来事の半年後には、十字架の時が来ます。イエス様は捕らえられて、処刑されたのです。イエス様は、わたしたち人間の罪を負ったのです。これは、私たちの罪を、贖うために必要なことでありました。・・・しかし、神様の計画はそこで終わりません。確かにイエス様は十字架の上で死に、亡骸は墓に入れられました。しかし、イエス様は、今日の聖書の記事の中で、祭司長たちや、ファリサイ派の人々に、このように予告しています。
『7:33~「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」』
イエス様は、祭司長たちやファリサイ派の人々に、「わたしがいる所に、あなたがたは来ることができない」と宣言しました。イエス様は、彼らの手の届かない「天の国」に上ることを予告したのです。
イエス様は、神様の定めたとおりに、この地上でその役割を果たしました。私たちも、イエス様のように役割を神様からいただいています。人それぞれには、神様が定めたそれぞれの人生があります。不公平なことかもしれませんが、豊かな人も貧しい人も、心の豊かな人も心の貧しい人もいます。そして、様々な人生をこの地上で送るわけですが、楽しいこともあれば、ひどい試練に会うこともあります。守られていることに感謝するときもあれば、「神様は酷いことをなさる」と思うときもあります。しかしどんな時でも、神様は私たちを愛していることを覚えると、苦労があっても絶望する必要はありません。必ず神様は、私たちを助けてくださいます。今日の記事でも、イエス様は、捕まることもなく、教えを続けることができています。神様の守りがあるならば、心細く思ったり、こわがったりする必要はないのです。イエス様は、命を狙われる中、堂々と教えていました。神様が守ってくれることを信じるからです。私たちも同じです。私たちが、将来行くところにも、今生きているこの人生にも、神様の守りがある。そのことが、心の支えです。
ところで、イエス様は「わたしのいる所」という場所について語りました。それはイエス様を信じない人々に対して、「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」と宣言するものす。言い換えますと、「イエス様のいる所に行ける人々がいる」このことを宣言しているのです。それは、誰か?
・・・
イエス様は、こんな話もしていました。
ヨハネ『12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」』
これは、イエス様を救い主と信じるすべての人への約束です。天の御国への招きだと思ってください。この約束に慰められながら、地上での人生のしばらくの間、時が来るまで、不必要な心配や、恐れを捨てましょう。すべてを、神様にゆだねて、イエス様に従う。そこに、平安があります。