1.最後の審判
これは最後の審判の物語です。最後の審判は選別から始まります。人が羊と山羊に譬えられ、羊飼いが羊を右、山羊を左に分けます。右は正しい者たち、左は不正な者たちです。裁き主である王はイエス様です。イエス様は正しい人たちを祝福し、彼らのため用意されている神の国を受け継ぐように言います。彼らが神の国を受け継ぐにふさわしいとイエス様が認めたのです。その理由も語りました。
『25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』』
この譬えは、初代教会が置かれた苦難と迫害の時代を示しています。ところが、王に誉められた人たちには善い行いをしたという意識すらありません。
王は答えます『25:40~はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
次に王の左側に分けられ、山羊に譬えられた人々の審判が始まります。王は最初から厳しい言葉を彼らに突きつけます。永遠の火とは焼き尽す滅びの火です。しかし、彼らは悪を行った意識はなく、そのことを言い張ります。王であるイエス様は答えました。
『25:45~はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 こうして、永遠の罰を受けるのです。
2.最後の審判の意味するところ
最後の審判はその人の行いに従っています。その基準は、「どれだけ隣人を愛したか」です。功績や社会で役に立ったか?は問われません。救いは、どれだけキリストに従ったのか が基準なのです。その行動規範は簡単です。困っている人を助けることです。助けないでは、いられないから助ける、彼らは自然に行動しているのです。それこそが「わたしにしてくれたことだ」とイエス様は言います。
一方で、困っている人に気づかなかったのか、手を差し伸べたくなかったのか? 助けなかった人に対しては、イエス様は「わたしにしてくれなかった」と言いました。すべての者がイエス様につながっていますから、どこの誰であっても、そこにはイエス様が一緒にいて、そしてそこで喜怒哀楽を共にしています。そのように、イエス様が寄り添っている人にしてあげることは、イエス様にしたことだとこのみ言葉はは語っているのです。
3.隣人のために
苦しんでいる人の苦しみを和らげる行い。その、慈善活動の力は、裕福な階級の特権的なものではありません。誰にでもできるのです。例えば、経済的に裕福でない人々は、物やお金で助けること以外で、助けることができます。財力は、ある場面では圧倒的な助けをもたらすかもしれませんが、ほかの方法で助けることはいくらでも考えられるのです。だから、何も与えるものがないように見える人々でも、大きな そして多くの 助けをすることが可能です。
隣人を助けるためには、まず、隣人が助けを必要としているのか?を知ることが必要です。大きな声で、必要を訴えてくれれば別ですが、なにもその人に関心を持たない状態では、助けを求めているかどうかは気が付きようがないのです。では、どうやって気づけばよいのか?・・・関心を持つことなのですが、だからと言って、むやみに「何かしてあげられませんか?」などと聞きまくって良いものかと言うと、それはあまり良い結果をもたらさないと思われます。このように、少々無理をして隣人を助けるのではなくて、自然体で助けずにはおられない。そんな、人をイエス様は右側に仕分けられるのです。ですから、無理に助けようとすることは、答えでないようです。でも、隣人とイエス様のかかわりを考えると、イエス様が導こうとしているそこにいる隣人は、他人ではなく兄弟姉妹なのです。隣人は、神様の前では、兄弟姉妹。そのことをしっかり心の中に収めることが良いのだと思います。
そして、何をしてあげるのが良いことなのか? このことも大事です。見守っているだけで何もしないのもその選択の一つです。決して自分の気を済ませるための助けではないので、隣人の助けとなることを選ぶ。そして、良い助けとなる方法もいろいろ選ばなければなりません。また、濃度、頻度、時期によっては、有難迷惑であったり、気分を害されたりするでしょう。ですから、基準は「隣人の心」です。隣人に寄り添った助け。決して、自己満足のためではなく、隣人のために配慮する。それがイエス様のための助けとなるのです。