1.ぶどう園と農夫のたとえ
これは、「不誠実なぶどう園の農夫」の喩えです。イエス様はガリラヤでの活動を終えて、エルサレムに来ました。エルサレムに入城した時、民衆は歓呼して迎えました。そしてイエス様がエルサレムで最初に向かったのは神殿でした。神殿では商人たちが犠牲として捧げる動物を売り、流通していたローマの貨幣を献金用のシェケル貨幣に両替していました。イエス様は、これらの商売をしていた人々を神殿から追いだします。当然、祭司長たちは、イエスの行為に怒り、詰問します。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」(11:28)。それに答えてイエスが話されたのが「ぶどう園と農夫のたとえ」です。
旧約聖書では、イスラエルはぶどう園にたとえています。この箇所のたとえでは、ぶどう園はイスラエルを、主人は神様を、農夫たちはイスラエルの指導者たちを指します。神様はイスラエルをご自分の民として選んで、契約を結び、指導者たちに管理を委ねました。時が経ち、イスラエルがどのように実を結んだのか、その収穫を求めて、神様は僕(預言者)たちを送りました。しかし、指導者たちは預言者の言葉を聞かずに追い出し、次には侮辱してたたき出し、最後には傷を負わせて放り出します。ここで、イエス様が言ったのは、イザヤやエレミヤが預言者として送られたのに、人々は従わず、彼らを迫害したことです。
そこで、ぶどう園の主人である神様は考えます。「今度は私の一人息子を送ろう」と。「この子なら彼らも敬ってくれるに違いない」と言うことです。そして、神様はイエス様を地上に送りました。しかし、農夫たちはイエス様を見て、『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』と、殺します。
農夫たちは、主人から土地を預かっています。当然只なはずはなく、小作料を納める必要があります。主人が送った僕は、その小作料の取り立てだと思ってください。農夫たちは、僕たちを追い返しただけではなく、小作料を踏み倒していたのです。主人は遠くにいるわけですから、怖くもなかったのでしょう。現にしばらく小作地を見に来てもいません。そこに跡取りが来たわけですから、殺してしまえば、未来永劫小作料は踏み倒せるかもしれません。このたとえで、イスラエルを任されている指導者たちが、善良な国の管理を放棄して無法を尽くし、そしていま神の子であるイエス様を殺そうとしていると、イエス様は予告したのです。
2.神様不在の暴力
指導者たちは「神様がいまここにはいない」だから「何も束縛されない」のを感じ取っていて、自分たちの利益だけを求めて貪っていました。神様さえいなければ中心になるのは、無秩序です。そこでは自己利益追求が横行した末、強い者はますます強く、弱い者は切り捨てられていきます。
これは、現代でも通じるたとえです。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザへの侵攻と迫害。それだけではありません。多くの欲望に仕える為政者が、弱いものを苦しめています。この構造は、為政者だけではありません。イエス様はたとえで「あなたがたも、この農夫たちと同じく、自分のことしか考えていないからではないのか」と問いかけているのです。
私たちも、神様の働きが見えない事を良いことに、自分がこの世の主人になろうとしています。自分が主人になってしまうと、私たちは他人のものを貪ります。その貪りが他者を傷つけ、争いとなるのです。ぶどう園で働く農夫たちはぶどう園の主ではありません。しかし、それを自分のもののようにしたいと願い、主人が送ってきた僕を袋だたきにして追い返しました。そして、最後には主人の一人息子を殺してぶどう園を不当に自分のものにしようとします。全く、自分以外を顧みないこの生き方。それが罪です。
3.神様と共に生きる
『12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。』
温厚なイエス様が、本当にこのような厳しい裁きを考えていたのでしょうか?。文献学的に、聖書学者の多くは、9節後半以降はもともとのイエスの言葉にはない、たぶん書き加えたものであろうと考えています。いま、私たちが読んでみても、文脈的に物語は8節までで、そのあとにあるのは第三者的に感想を述べているように読み取れます。ある意味、筆者であるルカの考えがここに現れているのかもしれません。と、いうことで、この言葉はイエス様のものではないとしたら、イエス様が祭司たちにも悔い改めを求めて、その裁きは父なる神様に委ねたことと矛盾はしません。一方で、弟子たちはイエス様を殺したユダヤ人を裁いてこのように書き加えたのでしょう。
その流れで、「隅の親石」の詩の意味合いに注意する必要があります。原文は、詩篇118篇22-25節です。もともとは、「バビロンによって滅ぼされ、捨てられたかに見えた石を用いて、神様はイスラエルを復活する。」の意味です。この場面では、「人々はイエス様を役に立たない石として捨てますが、そのイエス様を神様は死から復活させ、神の国をもたらします。」との信仰告白です。私たちは、その復活したイエス様を信じることによって、神様と共に生きる惠が与えられるのです。