2024年 7月 21日 主日礼拝
『キリスト者の良心』
聖書 ローマの信徒への手紙14:10-23
今日は、ローマの信徒の手紙から、パウロが取り継いだ教えのお話しです。その前に、知っておきたいことがあります。私たちは、お肉を手に入れたい時、スーパーマーケットやお肉屋さんで、買います。そのときに、特別なことが無い限りは、どこの農場で育ってどこの処理場で加工されたかなどは、気にもしないと思います。それが、古代ローマではどうだったかを想像して見てください。ローマ帝国には、大規模な食肉を提供する仕組みがありました。それは、神々の神殿に仕える神官たちが創りました。信者が奉納した犠牲の動物を、神官が屠殺し、そして切り分けて、転売するわけです。神官は、その対価で家族を養います。パウロが問題にしているのは、その転売された肉は、神殿に供えられた肉だということです。ユダヤ教徒はそのような肉を受け入れませんし、クリスチャンも、受け入れない人が多かったということです。そこには、こんな理由があります。ユダヤ教には、さまざまな食物規定があります。ユダヤの民は、伝統的に厳格な食物規定「カシュルート」と 食べてよい食べ物「コーシェル」を守ることが求められてきました。これらの根拠は、モーセの律法であります。世界の多くの宗教には、そういった食物規定があって、食べてよい物、食用とするための処理方法について、厳格に決められているのです。
さて、パウロの言葉を 日本で生活している私たちのこととして理解してみましょう。分かりやすいのは、「仏壇に供えたごはんや果物」を クリスチャンとして、食べるか、食べないか? の問いだと思います。みなさん色々なご意見があると思いますが、ここでは2つの例を挙げてみます。1つ目は、仏壇に供えたごはんは、仏壇の上にある間に特段化学的にも、物理的にも変化しないので、食べても何も起こらない との考えです。もう一つが、神様でないものに供えられたごはんを食べるのは罪だ との考えです。どちらの考えも、間違っていないと思います。それでも、食事の度に異教の神に供えた食べ物が出てくるとしたら、これは根深い問題なのです。そして、罪を避ける、また罪だと言われるのを避けるならば、お肉は食べられないと言うことになります。・・・当時、ローマのキリスト教徒の食生活には、そのような問題があったわけです。
さて、当時ローマで売られていた肉はモーセの律法の規定に基づいて屠殺されたもの(「レビ記」17章10〜17節)ではありませんでした。さらにこの問題を深刻にしているのは、偶像に「いけにえ」として捧げられたお肉です。「偶像に供えた肉を食べたならば、偶像礼拝に加わったことと同じ」、と考える人がいるわけです。パウロは、このようなお肉を食べない人々を「弱い」キリスト教の信者と呼んでいます。そして、食物規定から自由になれない彼らの 判断を 認めたのです。
一方で、食物規定を犯して偶像に捧げられたお肉を食べる人にも、パウロは理解を示しています。「強い」キリスト教の信者が、その自由を選ぶことを認めたのです。ここでパウロの言う、強い弱いは、律法から自立した信仰の強さを表しています。そして、パウロは信仰の強い者の選びと信仰の弱い者の選びについて、どちらも認めています。しかし、パウロ自身の自由については、慎重な態度を取りました。そして最終的には、パウロは、お肉を食べない人々を心配させないために、お肉を食べないことにしたのです。パウロは、律法を頑なに守るという意味ではなくて、弱い人々がつまづかないように、弱い人に合わせることを選びました。
これは、「他人の信仰を傷つけてはいけない」との配慮であります。「弱い」信仰者も「強い」信仰者も それぞれが選び取って生きる権利を持っています。しかし、強い者の行いが弱い者を躓かせるならば、その行いを見せない方が良いはずです。また、弱い者の行いを強い者が批判してはいけないのです。そして、互いに認められるべきです。それぞれが信仰によって選び取ったものは守られる。そう願いたいです。
イエス様は十字架に架けられ、死んで、復活しました。それは、イエス様が私たちの救い主となるためでした。キリストの十字架があってこそ、私たちの信仰があります。ですから、同じキリストが救ったキリストを信仰する者を裁いてはいけません。それぞれがイエス様から与えられた信仰を守ればよいので、イエス様から与えられた信仰に、口出しする余地はないのです。
ここまでの、食肉の話と似たような事は、私たちの周辺でも起きます。特に冠婚葬祭は、避けようとしても避けられません。そして、冠婚葬祭では、必ずと言ってよいほど、供えたものが出されます。また、異教の神々を礼拝する場面も当然あるわけです。私たちそれぞれは、自分で判断する自由を持っていますが、所謂「わがまま」が通じるわけではありません。そういう意味では、冠婚葬祭のときに「信仰が問われる」のです。信仰が強いものは強いものなりに、そして信仰が弱いものは弱いものなりの答えがあるはずです。たとえば、「相手に失礼にならないように 形だけまねるが 神様以外は礼拝しない」とか「神々に備えられた食事をたべても何ら影響がない」と弁明することができます。また、「黙ってスルー」「その席からいなくなる」などささやかに抵抗することもできるわけです。他にも方法はあるでしょう。しかし、目立つようなときは、「相手に説明する」ことだと思います。個人それぞれの信仰を尊重し合う現代では、受け入れてくれるはずです。
同様に、クリスチャン同志も互いに尊重し合うべきです。私たちは、神様の裁きを待つ身であります。ですから、私たちは人を裁くことに熱心ではいけません。特にクリスチャン同志で裁き合うのは、悲しい限りです。むしろ、どうやって互いに信仰的に躓かないようにできるか、に関心を持つべきです。パウロは、このように説明しています。
『つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。』
この言葉は、弱いものへの配慮であります。自分の主義主張をするために、信仰の弱い人を躓かせては、何の得にもなりません。また、そこに気がつかなければ、弱い人を躓かせ続けることでしょう。パウロは、こう説明します。
『14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。』
イエス様は、どのような食べ物もすべて清いものである、と宣言しています(マルコ7:14〜19)。それを受けて、『それ自体で汚れたものは何もない』、とパウロは言います。汚れとは、ものの性質ではありません。そのものが汚れていると思う人の「思い」の中で汚れているのです。ですから、あなたがいかに「これは汚れていない」と宣言しようが、汚れていると思った人にとっては、それは汚れたままなのです。ですから、あなたが汚れていないと宣言しながら食べたところで、汚れていると思う兄弟からすれば「汚れていると思うものを食べた」事実は変わらないのです。ですから、その兄弟はあなたが汚れたものを食べたと思って心を痛めるでしょう。このように兄弟の心を痛めさせることのないように、兄弟に配慮する良心を持つべきであります。
人は各自、己の善いとすることに従うべきです。しかし、パウロはそれにも限界があることについて、このように教えています。
『あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。』
もちろん、善いと思ったからと言って、全ての人にとって良いかどうかは別です。だから、良かれと思っても突っ走ってはいけません。その良いと思うことを吟味することが大事です。そして次に、誰かに影響するかもしれないので、注意深く実行することです。この手順ならば、たとえその行動に欠点があっても、影響が少ないうちに修正できるでしょう。これが、良心による行動であります。そしてもし、問題があったとき、良心によらないで起こしてしまった結果ならば、それは罪であります。良心は、イエス様の愛から来ています。良心は、イエス様がこの地上で行ってきたように、最善を備えようとするのです。こうした方が善いだろうという判断はできても、結果が保証できないとき。それなのに強行したのであれば、それは良心による行動とは言えません。その行動は、自分の考えに従っているだけですから、他の人々への配慮が足りないのです。その人は自分の信仰の思いに従うと言う意味で「強い」者です。そして、強い者だけならば、自由な行動をとることに、問題はありません。しかし、パウロはその強い者に警告を出しています。知らず知らずに、弱い人に影響があるからです。だから、強い人には、良心からの行動が必要なのです。良心とは、キリストの愛からくるものです。私たちはキリストに従うべきなのです。キリストの愛から離れることは、クリスチャンにとっては、神様への反抗、罪であります。
また、弱い人は、「強い人に倣わなければならない」と引きずり込まれそうになります。例えば、「こんなことしてよいのか?」と 心の中に混乱をおこします。または、なぜ善いのか?を知らないまま強い人の真似をします。だから、パウロは弱い人のために、キリストの愛をもって配慮したい。そう決心したのでした。
今日のお話しは、キリストを信じる者への配慮についてのパウロ教えでした。パウロが決心したように、自分の持っている自由をあえて行使しない、という判断は良心によってもたらされます。この良心の根源はキリストの愛です。キリストの愛に従うときに、キリストを信じる者は、自らの自由を捨てて皆に仕える者となるのです。
『14:18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。』
キリストを信じる者同志は、互いに良心によって教会生活を送り、平和を広め、互いの成長を支え合います。キリストは、全ての人に益となることを望み、そして実現させます。そのキリストの愛を受け止めてまいりましょう。