Ⅰコリント6:12-20 

 キリストの一部として

2023年 1月 29日 主日礼拝 

キリストの一部として

聖書 コリントの信徒への手紙 6:12-20           

今日はコリントの信徒への手紙一から、パウロの熱いメッセージをお伝えします。

 12節から始まる唐突なお話であります。パウロはここで『すべてのことが私には許されている。』と書いています。しかしこれは、「私、使徒パウロにはどんなことでも許されている。だから、私は何でもしてもよいのだ」と宣言しているのではありません。実はその反対で、このような考え違いをしないように、コリントの教会の人たちを諭しているのです。この唐突な発言は、第一コリントの特徴であります、「コリントの信徒たちの主張をまず先に出して、それに対してパウロの考えを伝える」といった会話のし方をパウロがとっているからです。


 ではコリントの信徒たちの主張を理解するために、パウロが問題にしていたことを見てみましょう。

Ⅰコリ『5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、』とあります。

 パウロは、「みだらな行いをする者や偶像礼拝をする者」を問題としていました。ですから、「そのような信徒と一切食事をするな」とパウロは命じていました。また、パウロはこうも言っています。

Ⅰコリ『6:1 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。』

ここでパウロが言っているのは、教会の信徒同志の争いを解決しようとした、ローマの法廷への訴えに対し、なぜ信仰のない人に裁いてもらおうとするのか、それはいけないと戒めであります。そして、このように教えます。「なぜあなたは自分の利益を守ろうとするのか?むしろ喜んで、不利益を受けなさい」と教えました。このようにパウロの言っている「みだらな」行いとは、神様のみ旨に沿わない事全般を指しています。また、自分に厳しくすることに、納得できない人も多かったでしょう。そのためでしょうか?彼らの中には、「私たちは、律法から開放され、もはや自由だ」とのパウロの教えを逆手にとって、行いを正当化する人たちがいました。ですから、彼らは、「古臭い律法の縛りなど、もはや私たちは守る必要がないのだ」、とか『わたしには、すべてのことが許されている。』と、自分だけの満足ばかり考えていたのです。


 また、当時のキリスト教には、霊肉二元論の影響もありました。これは、今では異端とされていますが、「肉的な事柄には価値がない、価値があるのは霊的な事柄だけなのだ」との考えです。そこから始まって、「食欲などの肉的な欲望は、霊的ではないので、欲望どおりに自由にしたらよろしい」との曲がった解釈につながっていました。(注:コリントは、ギリシャの主要な港町であり、女神アフロディーテを祭る神殿があった、肉欲に寛容な土地柄です。)そのような信徒たちに向かってパウロは、頭から否定するのではなく、彼らの考えから順番に話を進めています。

「そうですね、あなたがたの言うとおり、確かに私たちは今や自由の身です。すべては私たちのものであり、私たちにはどんなことをもする自由が与えられています。」 パウロは、このように話し始めますが、そこには条件があることを示しました。

『しかし、すべてのことが益になるわけではない。~

しかし、わたしは何事にも支配されはしない。』 と、パウロは言いました。みんなが自由にすると言うことは、お互いに利益や権利を奪い合うことであります。そしてそれは、相手を支配したり支配されたりする関係を生みます。自分の利益や自由は 相手の不利益や不自由であり、相手の利益や自由は 自分の不利益や不自由なのです。仮に何をしても自由だとしても、思い通りにし合うのなら、自分と相手を同時に幸せにすることは叶いません。ですからパウロは、『しかし、すべてのことが益になるわけではない。』と語りました。また、相手によって支配され、不自由となることもあってはなりませんし、それ以上に「自分の自由にしたいとの欲望」に支配されてはいけません。欲望は無制限に現れますから、『私は欲望には支配されない』との毅然とした態度が必要なのです。


 イエス様を信じる者の持っている本当の自由とは、罪から解放された自由です。イエス様は、自由について語っておりますので、確認してみましょう。聖書には、ヨハネによる福音書の8章にだけあります。

ヨハネ『8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」』

ヨハネ『8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。』

 ここから読み取れることがあります。イエス様の与えてくださる自由とは、罪を犯す自由などではなく、真理によって罪の力から脱出するための自由だと言うことです。イエス様は、罪の奴隷であった私たちを解放して、自由の身にしてくださったのです。イエス様を信じる者は、罪から解放されて自由となったので、もはや罪の奴隷ではありません。パウロは、コリントの信徒たちに対して、「罪に支配されるのは、本当の自由ではありません」と教えたのです。


 次に『6:13 食物は腹のため、腹は食物のためにある』と言うのも、コリントの信徒たちが語った言葉です。「空腹を満たすために食べ物があるし、その食べ物を食べるために腹があるのだ」と 当たり前のように聞こえます。しかし、その意図は、「肉体の欲求を満たすだけ食べてよいし、食べたいままにさせてよい」と、「欲望のまま」を推奨しているのです。これでは、肉欲に仕えているいるだけですから、自由とは言えません。ですからパウロは、その「食物、そしてお腹」に対して、『神はそのいずれをも滅ぼされます。』と言いました。食物はお腹をいっぱいにするためにあるのではなく、お腹は肉欲に仕えてしまってはならないからです。パウロはこう言います、

『6:13~体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。』

 この言葉で、私たちの「体は主のためにある」というのはなんとなく分かりそうですが、「主は体のためにある」との意味は分かりずらいと思います。ここでの「体」とはギリシャ語のソーマ(σῶμα)単数形で、「肉体、キリストの体なる教会」を指します。イエス様は、「キリストの体なる教会」を罪の力から贖うために、自分の命を捨てられました。ですから、「主は体のためにある」とは、「イエス様は教会のために命をも捨てられた」という意味であります。また、「体は主のためにある」とは、「教会はイエス様のためにあります」という意味です。私たちの教会は、イエス様のためのものであり、イエス様の尊い犠牲によってもたらされました。ですから、わたしたちは教会の一部である自分の体をも、大切にしなければならないのです。


 パウロは続けます。

『6:14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。』

神様はイエス様をよみがえらせました。復活とは、霊のよみがえりだけではなく、体のよみがえりをも指します。私たちが将来、復活するときの体に、私たちの生き方が影響するのです。ですから、私たちは今の体を大事にしなくてはなりません。


 さらに重要なことは、『6:15~自分の体がキリストの体の一部だ~』と言うことです。教会はキリストの体である、ということは何度も聞いているでしょう。そのことに加えて、私たち一人一人の体も、キリストの体の一部だと言えます。私たちの体は私たちのものであると同時に、キリストのものでもあるのです。イエス様の体の一部であるならば、私たちの肉の思いのために使ってはなりません。


 このように、個人的な欲望をわがままに追い求めないように、イエス様を畏れなければなりません。そして私たちはイエス様との深い交わりに招かれています。パウロは、『6:17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。』と教えます。

これまで体と言っていましたが、「一つの霊となる」としていることに気が付くと思います。ここでは、キリストの「体」の一部である私たちが、キリストの「霊」の一部となることを示します。パウロは、さらに説明します。

『人が犯す罪はすべて体の外にあります。』ですが、そのままに読み取ると、罪は自分の外にあって、私に罪があるわけではないとの言い訳に聞こえます。しかし、正しくは、「体には罪がない」ことを指しています。罪を犯すものは、心だからです。一方で、その心が原因の「みだらな行い」は、大食いをはじめとする不健康な行為を含んでいて、それらは体の生きる活力を消耗させます。そして、弱り、力が抜け、病気を生み出し、そして体の寿命を縮めます。ですからパウロは、『自分の体に対して罪を犯しているのです。』と教えます。そして、あなたがたの「体」の本質を説明します。

『6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。』

 パウロは、あなたがたの体は神の神殿なのだ、と語ります。「神殿」と言えば、ユダヤ人にとっては唯一の大切なものです。そこは神様がいる場所でありますから、絶対的な空間です。ですから、その神殿の一部を体として持つ信徒たちが自ら、「みだらな行い」つまり、自分の思いのままに生きてはならないのです。そして、私たちの体はもはや私たちの持ち物ではありません。イエス様がその貴い命を私たちの罪の代価として買い戻して下さったからです。イエス様は、私たちの返しきれない借金を背負って下さっています。これが真理なのです。私たちは今や、イエス様によって罪と死から自由になりました。イエス様を信じているからです。

 さて、コリントの信徒たちは、イエス様を知り信じた後も、これまでしてきた世の楽しみから遠ざかることを嫌がりました。「急にやめろと言われてもできない」、とは誰しもが思うことかもしれません。しかし、私たちを本当に愛してくださるイエス様と、イエス様を愛する私たちはすでに一体となっているのです。私たちは、罪と死から解放された代わりに、イエス様の僕となったのです。私たちはイエス様の僕としてふさわしくありません。しかし、イエス様はそれを赦してくださったのです。ですから、私たちは、「キリストの一部として」神様の栄光を現すことが出来るように、イエス様に祈りつつ、イエス様に従ってまいりましょう。