マタイ24:36-51

 目を覚ましていなさい

 

 1.目を覚ましていなさい

 

イエス様は群衆と弟子たちにお話しになりました。

 「その日は突然来る」というニュアンスで、ノアの洪水を例に説明します。ノアの洪水は、神様はいつ来るかご存じでした。そして、ノアに準備をさせたのです。そのほかの人は、何も気が付きませんでした。気づいた時は洪水に飲まれていたのです。


 イエス様が再臨するときも同じように、だれも気が付かないうちに、連れていかれる人と残される人に分けられると、言うのです。ここで言う、連れていかれる、と残されるは、2つ解釈があります。連れていかれるのは、「イエス様の住む世界に」という意味と「死」と言う意味にとることが出来ます。どちらにしても、その時に分けられ(裁かれる)ことになります。


 イエス様は何時再臨されるのか、私たちにはわからないので、目を覚ましている必要があります。もし、家の主人は、泥棒がやって来ることを知っていたら、そのときまで目を覚まして見張っているはずです。そのように準備していれば泥棒に入られないのです。


ですから、イエス様は、言われます。思いがけない時に再臨されるのだから、用意をしておきなさい と。


さて、どんな用意ができるのでしょうか、イエス様はその答えを言われておりません。私たちのできることは、その再臨の時まで、世界中の人々に伝道して、イエス様のことを知らせることです。

  

2.忠実な僕と悪い僕


 たくさんの使用人を抱える主人が、一人の僕に「使用人たちに時間通りに食事を与える」役割をいいつけました。そして出かけたのです。主人が帰ってくると、その通りにしていました。この僕は、主人がいてもいなくても忠実に仕事をしたのです。この忠実な僕には、他の用を言いつけても忠実にやり遂げるでしょう。たぶん、全財産を管理させても大丈夫です。


 一方で、悪い僕だったら、主人の帰りが遅いと読むと、主人が留守であることを良いことに、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしてしまいます。しかし、主人は突然帰ってきて悪い僕を罰します。


 このたとえも、イエス様の再臨のことを指しています。忠実な僕そうありたいと私たちすべてがそのように思っています。しかし、残念ながら、忠実を貫くことは大変難しいのです。なぜなら、私たちには悪い僕になってしまう誘惑がやって来るからです。

 

 この悪い僕は、根っからの「悪」(わる)なのでしょうか? それは違います。主人が大事な使用人たちを養うために、大事な仕事を託したわけですから、日ごろの働きぶりは忠実そのものだったのだと考えられます。そして、本人もそれを自負していたはずです。それなのに、なぜ、皮肉なことが起こるのでしょうか?

 

 たとえ話ですから、推論をしてもあまり意味はありませんが、この悪い僕(私に読み替えて考えましょう)は「自立」できていないのだと思われます。


 主人が居る間は、主人の気にいるようにふるまえば、何事もうまくいくのです。しかし、主人が居なくなり、自分が主人の代わりとなると、その主人の代わりである自分の気に入るようにふるまってしまったのです。それは、だれでも起こりえることだと思われます。ところが、もっと悪いことがあります。価値観(働く動機や目標の共有等)です。主人と私の関係はあるのですが、他の使用人たちと私の関係性が出来上がっていないのです。なぜなら、私が主人と同じ価値感を持っていないからです。そのために、主人がいなくなると、主人と使用人たちの間で共有していた価値観がと使用人たちの間では通じなくなってしまうのです。つまり、主人の持つ価値観によって、その気に入られるようにふるまう事によって、は仕事ができていたに過ぎなかったと言う事なのです。そして、主人がいなくなることで、そのバランスが崩れてしまいました。

  こうして、忠実な僕は、悪い僕に変わってしまう事もあるのです。