ルカ12:35-48

 地上に投げ込む火

 

1.地上に投げ込む火

 群衆はイエス様に集まってきているのですが、イエス様を求めているわけではないことをご自身で嘆いていました。しかし、イエス様は、弟子たちと群衆に語ります。地上に火を投げ込むときが来ると。 家族であっても、イエス様につくか、あるいは敵になるか、はっきりと別れてしまう と話しました。つまり、神様につながって世の敵になるか、世につながって神様の敵になるか、どちらかになるのです。

 イエス様が、「地上に火を投げ込むために来た」と言われたのは何のことでしょうか?この直前の話で、弟子たちに対して主人がしもべたちのところに戻る(つまり再臨)の話をしていました。ここも再臨の話なのです。イエス様は、ご自分が再臨されて、ご自分につく者とそうでない者とを選り分ける と語っています。旧約の最後の預言者マラキによると、この選り分けが預言されています。

マラキ『3:19 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。』


イエス様が地上に火を投げ込むと言ったのは、この預言の事です。悪を行う者は、ことごとく燃えて滅びますが、イエス様の御名を畏れ敬うものには、義の太陽が昇り、癒しがあるということです。そしてこの後に、
マラキ『3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。』

そこで、バプテスマのヨハネが、エリヤの霊と力によってやってきました。彼が話したのは、聖霊と火のバプテスマです。

『3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」』


    イエス様が、聖霊によるバプテスマを授けられます。そして教会が生まれました。ところで、聖霊だけでなく「火」によるバプテスマもバプテスマのヨハネは語っています。籾と藁に選り分けられ(脱穀)、麦は打って(麦打ち)から麦と籾殻と箕で分けられ、麦は倉に、藁と籾殻は火によって焼き払われます。イエス様は今、ご自身が再臨することを弟子たちに語られていたので、ご自身が戻って来ると、火による裁きが行われることを語っているのです。

この言葉は、イエス様がここにいる弟子たちをこれから始まる苦しみから解き、御国の中に入れたいという思いで言われたのかもしれません。

『12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。』

 イエス様は、今、弟子たちに心の内を明かしておられます。火によるバプテスマの時が来るのですが、ご自身がその前に受けなければいけない別のバプテスマがあるのです。それは、十字架の苦しみによるバプテスマです。バプテスマ(βάπτισμα)とは「浸す」という意味のギリシア語で、苦しみを経ることを指します。イエス様は、火によって人々を選り分け裁く前に、ご自身が苦しみのバプテスマを受けるようになると言っているのです。


2.今の時代の見分け

 イエス様が言われたのは、なぜ今の時代の徴を見分けることができないのか? です。イエス様が約束されたメシアであること、旧約聖書の預言者が預言したとおり、イエス様が来て、様々な徴が成就していることを指します。その徴が数多くあるのに、なおのこと徴を求めてイエス様を試す、その頑なさをイエス様は嘆いています。今ここでイエス様は、徴のことを群衆に話しています。つまり、群衆がファリサイ派の人々や律法学者の言うことを鵜呑みにして、自ら判断していないということなのです。「どうして自分で判断しないのですか。」とイエス様が言われています。私たちは自分自身で判断して見分けて、それでイエス様のの御心を知るようになりたいのです。それを放棄して、ただ目上の人から言われるままに生きることをイエス様は咎めているのです。

3.和解の努め 

 この譬えは、イエス様ご自身と群衆一人一人の関係の中で話しています。一人一人をイエス様が告訴しているのです。そして、裁判官は父なる神です。イエス様が人を罪に定めようとしている中で、訴えられている人はしっかりとイエス様と和解しなければ、刑罰を与えられることを警告しているのです。ここのイエス様の言葉で大事な部分は、「努めなさい」です。イエス様に立ち返ること、及び悔い改めることに熱心にならないといけないのです。

 イエス様の和解を受け入れるかどうかが、一人一人に問われています。神様はすでにキリストにあって和解しておられるのです。けれども、受け入れる必要があります。その愛を、その赦しを受け入れる必要があるのです。心をどうか開いてください、そしてキリストが既に十字架で死なれたのですから、愛を注がれたのですから、それを受け取ってください。