コリントの信徒への手紙一9:1-18

権利を用いない自由


1.働きと権利

 パウロは、使徒であることを主張します。使徒とは、イエス様の復活を目撃した弟子で、かつ頂いた権能を使って癒しや悪霊の追い出し(しるし)ができるということを指します。そういう意味でパウロは12弟子以外でありながらの、使徒でありました。その証拠に、パウロがコリントにいたとき、多くの人々が、イエス様を信じました。ですから、コリントにいる人々こそが、パウロが使徒であることを証明する人たちです。 

 パウロは、使徒にともなう権利について話します。パウロは、たくさんの批判を受けていたようですが、「パウロが使徒ではない」と思っている人ならば、全て使徒に与えられている権利は、パウロやバルナバに対しては認めていなかったのでしょう。 パウロは多くの時間を捧げて、福音を宣べ伝え、イエス様のみことばを教えました。それなのに、「自分たちが食べるために働かなければいけないのですか?」、というパウロの問いかけです。コリントの人たちは、十分にみことばをパウロから受け取っていたにも関わらず、パウロの生活を支えることは考えませんでした。彼らは貧しかったわけではありません。パウロに与えることを惜しんだのです。そればかりか、パウロを批判したのです。

 無報酬で旅費自腹のパウロとバルナバに比べ、ケファ(ペトロ)は、生活費を受け、伝道に出る時は、奥さんを連れています。(つまり、妻の分まで旅費が出ている) パウロとバルナバは、他の使徒たち以上に福音宣教の働きをしていました。けれども、自分たちで働いていました。しかし、働いて成果を出している者は、その生活を支えてもらう当然の権利を持っています。例えば、軍隊であれば国が手当てを出し、そして駐屯中の衣食住は、国が確保します。ですから、福音宣教にたずさわっている人たちは、当然ながら生活のささえを受け取るべきです。伝道の働きをしている人たちが、います。その働きの恩恵にあずかっている人たちはとくに、その人たちの生活を支えるのが、常識的な判断であります。

 申命記には、「25:4 脱穀している牛に口籠(くつこ)を掛けてはいけない。」と書いてあります。神様は、牛のことを気にかけているのでしょうか。 脱穀は、乾燥した穀物を地面に敷いて、人が竿を使ってたたく作業です。もちろん牛を使って、踏ませることでも脱穀をすることが出来ます。そのときに牛にくつこをかけると、牛は落ちた麦を食べることができなくなります。牛でさえ、その働きに対して報酬があるのです。神様は牛にさえ、このように権利を認めています。ましてや、人間であれば、ことさらに権利を守られるのです。この命令は、私たちのためにあります。なぜなら、耕す者、脱穀する者が分配を受けて仕事をするのは当然だからです。このように パウロは、はっきりとコリントにいる人々から生活のささえを得ることは当然である、と訴えます。

 一方で、福音に少しの妨げもあってはならない、というのがパウロが言いたいことです。もし生活の支えをコリントの人たちに要求したら、「お金欲しさに、パウロは教えている。」とつぶやくでしょう。そうしたら、福音が伝わらない。だから、報酬を得ないのだ、と言うことです。

2.権利を用いない自由

 パウロは、『9:15 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。』と言っています。また、生活のささえを受けないことが、パウロの誇りだったのです。

 福音を担う者は、言葉だけではなく、行ないによっても示すことができます。それは、ただで福音を宣べ伝える、霊的な養いを与え、報酬を受け取らないことです。パウロは、このように、福音を言葉だけではなく行ないによって示すことを、喜びと感じていました。「受けるのではなく、与えることが幸いである(使徒20:35)」、とイエス様が言いましたが、与えることに誇りを抱いていたのです。

 そしてパウロは、誇りについて真反対のことを言い出します。

『9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。』

パウロにとって福音を宣べ伝えることは、「どうしても、しなければならないこと」だとパウロは言います。

福音を宣べ伝えていること事体は、自主的に行った誇るべきことではなく、イエス様の命令だからです。つまり、パウロは、福音を宣べ伝えるように召命を受けているからだ、と言っているのです。

 『9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。』

 パウロには、自分には報酬をもらう権利もあり、無報酬を選ぶ自由もあります。その権利を用いないところに誇りがある、喜びがあるとしています。パウロの権利を用いない自由は、「キリスト者の自由」です。キリスト者には、だれにも縛られない自由が与えられました。その自由が与えられたがために、自分の権利を用いないこともできるのです。パウロが、兄弟につまずきを与えないために、肉を一切食べない、ことと同じ理由からです。大事な働きのために、自分の権利をも制限する自由が与えられています。