マルコ4:35-41

まだ信じないのか

2023年 35日 主日礼拝

まだ信じないのか

聖書 マルコによる福音書4:35-41

 カファルナウムで伝道活動をしていたイエス様は、ガリラヤ湖に舟を浮かべて、舟の上から岸辺に集まった群衆に教えておられました。ガリラヤ湖は、南北に20kmくらいの大きさです。夕方になって、イエス様は北側のカファルナウムから南東部のゲラサに伝道に向かおうとします。ガリラヤ湖は、深さ43mもありますので、天候によって海とかわらないくらい荒れる湖です。また、縦断するには早くても4、5時間はかかりますので、気楽に行けるような旅ではなく、夜通し交代で櫓を漕がなければなりません。また、湖を渡ったのちに約80kmも歩く必要があります。とても、夕方まで教えていて、その足で立ち寄るような距離ではありません。ゲラサは、12部族の一つであるマナセの嗣業(しぎょう)の地ですが、実は、ヨルダン川の東側は、イスラエルの土地と言うよりは、バサンやアンモンの人々の土地であります。つまり、カナンの地にイスラエルが移住したときに、このあたりの土地は奪うことが出来ず、他の民族が住み続けたわけです。ですから、ユダヤ教を信じる人はほとんどいない地方です。そういう意味から考えると、イエス様は、思い切った伝道方針を立てたことになります。弟子たちにとっても、ガリラヤを出るのが初めてでありますし、他国の人への伝道を目指すわけですから、結構心細いものがあったのだと思われます。乗っている舟も、たぶん漁に使っていた舟ですから大きくはありません。現存するイエス様の時代の舟がだいたい、舳先(へさき)から艫(とも)まで8mですから、目いっぱい乗って6人から8人です。もちろん、大勢乗るとそれだけ舟が沈みますから、長距離の移動には向きません。聖書には、イエス様の乗った舟のほかに複数の舟が付いていったと書かれていますので、4,5人が1隻に乗って、交代で漕いでいたと思われます。慣れない場所での夜の舟旅ですから、漁師出身の弟子たちにとっても、たいへん怖いものだったはずです。それは、舟が壊れたり、転覆したりする危険が増すからです。波風、浅瀬、流木等を避けなければなりませんが、波風は天気次第ですし、見通しがきかない夜間では、障害物を避けることも困難です。また、夜に舟から落ちてしまうと、助かる可能性は極めて低いのです。舟は、波を一度かぶったら、かぶっただけ浮力が減り、次に来る波をかぶりやすくなります。ですから、嵐になったら、次々と波をかぶることになって、とても生きては帰れないのです。弟子たちは、イエス様と一緒に出発しますが、これらの事を考えると、凪でなければ出発しなかったと思われます。 

 昼間は凪だったガリラヤ湖に、突風が吹きました。当然、波がたってきます。漁師だった弟子たちですから、波の来る方向に舳先を向けて波を避けたと思われます。それでも、舟は波をかぶって、あっという間に舳先が水でいっぱいになりました。弟子たちは、すぐに水を搔き出そうとしたと思います。でも、どうにもなりません。搔き出す水よりも、波の勢いが優っていたからです。舳先から沈んでいくのを見て、焦り、そして恐れました。そういう中、イエス様は、艫の方で眠っていました。弟子たちは急いでイエス様を起こして、 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びます。原語では、「おぼれても」ではなく、「壊れてしまっても」との表現ですので、弟子たちは寝ていたイエス様を強く非難した事になります。「命が危険にさらされているのに、寝ているとは信じられない」と弟子たちは思ったのでしょう。すると、イエス様は起き上がり、風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言いました。すると、風はやみ、すっかり凪になります。


 さて、イエス様のこの言葉で、風がやむことも凪になることも科学的には説明できません。そして、逆に言えるのは「このようなことは起こりえない」と説明もできないのです。ですから、この奇跡はイエス様だから起こせたんだと信じる人もいますし、たまたま、嵐が静まるころにイエス様が「黙れ、沈まれ」と言ったのだと考えることも可能です。また、このようなことは起こっていないという考えもあると思います。しかし、何もないのにマルコが作り話をしたとは、あまり考えられません。ですから、弟子たちが身の危険を感じて恐れていた「何か」が起こったのは確かであろうと思われます。たとえば、この福音書を文学的に読み取るのならば、ガリラヤ湖に起きる波は、弟子たちの不安な心を表現していると言えます。突風とは、急なゲラサへの伝道をイエス様が言い出したことを指しているのかもしれません。また、弟子たちが思ったのと同じように「風の霊と湖の霊がイエス様の命令を聞いた」つまりイエス様に忖度をしたとの受け止めもあります。

『4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。』

この記事から、弟子たちはイエス様の事を「神の子」であると まだ、信じていそうがないこともわかります。


 いろいろな受け止め方をお話ししましたが、どれが正しいのか?との説明は困難です。ですから、わたしたちが、この記事をどのように受け止め方は、それぞれの信仰によって様々であります。そのことを尊重すれば、これが「答え」と白黒をつける必要はありません。そう思うと、このような奇跡物語を読むたびに「イエス様への信仰を確認する」そういう機会を与えられている と わたしは考えています。


 話を戻しまして、弟子たちは、言葉によって風や湖を治めたイエス様の権威に、大きな怖れを抱きました。そこにイエス様は言います。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

さて、弟子たちが怖がる理由はどこにあるのでしょうか?それは、イエス様の事をまだ信じていない所と言えます。

 弟子たちは、イエス様にこのような奇跡を起こす力があると思っていなったわけです。イエス様を神の子だとも、預言者だとも考えていなかったようにも読めます。それでは、弟子たちにとってイエス様とは、どんな人だったのでしょうか?弟子たちは、この記事でイエス様の事を「先生」と呼びました。(原語:教えを教える人、ディダスカロス,διδάσκαλος:教師、有能な聖書の教師)弟子たちにとって、イエス様は「有能な律法の先生」で、一人の人間だったのです。つまり、有能な「人間イエス」だったわけです。それは決して誤りではありません。イエス様は、真(まこと)に人間でした。この物語でも、疲れを覚えて、舟のなかで寝てしまうようにです。でも、人間にはまねをすることが出来ないことをやってのけました。イエス様は、荒れ狂う風と湖を言葉で治めたのです。旧約聖書の中で、この様なことが出来るのは、神様しかいません。例えば詩篇にはこのように歌われています。

詩篇『107:29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。』 天地創造の神様だけが、海や湖を治めることができるお方です。ですからイエス様は、人間として生まれながら、自然を治められる権威をお持ちの真の神様でもあるのです。しかし、弟子たちはまだそのことを知らないのか・・・、少なくともイエス様を信じていませんでした。マルコはたびたび、このように弟子たちを批判しています。何度もイエス様を裏切った弟子たちは、イエス様の十字架の時を迎え、そしてイエス様が復活しても、まだイエス様を信じることが出来ませんでした。結局、弟子たちがイエス様を信じたのは、復活したイエス様が目の前に現れた時です。弟子たちは、信じる機会を何度も与えられました。例えば今日の物語の直後に、向こう岸のゲラサに到着した弟子たちは、けがれた霊にとりつかれた男から、この言葉を聞きます。

『5:7~「いと高き神の子イエス」~』

 弟子たちは、このときイエス様のことを「神の子」と呼ぶ声を聴きました。しかし、弟子たちは信じません。イエス様が自然を支配されている様子を見ても、信じなかった弟子たちは、「神の子」という叫び声にも反応しなかったのです。

 弟子たちはイエス様の事を誤解していました。波に揺られて舟が沈みそうな場面です。そんな時に、一人だけ寝ているわけです。なんで、自分たちが必死にがんばって水を搔き出しているときに、何もしないどころか眠っているのか? と弟子たちは思ったのでしょう。それは、私たちが困難に出会って悪戦苦闘しているときに、イエス様は何もしてくれないと嘆くのと同じ構図であります。イエス様は、決して放置しているのではありません。適切な時期に、必要なことをする予定なのです。ですから、波にのまれそうになった時も、イエス様を信じていれば、心配することは無かったのです。

『4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」』

イエス様は、湖の波を治めました。弟子たちはイエス様から助けられたのです。なのに、弟子たちは怖がりました。この怖がるの原語のニュアンスは、消極的な恐れであります。失うことに対する恐れでありますから、先生であるイエス様を疑ったことに怖れたのかもしれません。弟子たちが、イエス様を非難した直後の奇跡でしたので、イエス様の信頼を失ったと思って焦ったのでしょうか?自然をも治めるイエス様を見ながら、弟子たちはイエス様を信じることができませんでした。でも、イエス様は、「怖がらなくて大丈夫だよ。早く信じる時が来るように」との意図で、弟子たちに呼びかけたのです。

 このように、イエス様は弟子たちがイエス様を信じるようになるために、導きます。これは、神様のご計画だからです。十字架での死も、その後の復活も、わたしたちの罪を赦すためであり、私たちに永遠の命を与えるための計画だったのです。そして、自然をも治めるイエス様は、何でもできました。十字架に架けられないで済ますことも、十字架から下りてくることもできたでしょう。しかし、イエス様は、十字架に釘で打たれ、犠牲になることを選ばれたのです。わたしたちを救うためです。また、世界中の人々に信じてもらうためです。

 神の子であるイエス様は、十字架で嘲(あざけ)られましたが、そこから降りることをせず、神様に祈り、死んで、死の中から復活しました。このイエス様こそ、わたしたちに罪の赦しと永遠のいのちを与えて下さる救い主です。

 その神の子、救い主なるイエス・キリストが、私たちの人生という舟の中に共にいてくださいます。ガリラヤ湖での突風のように、人生には思いも寄らない困難が起こって、経験や知恵を集めてもどうにもならないと嘆きたくなる時もあります。そんな苦しさや無力感を抱いているとき、本当に必要なのは、共にいてくれる人です。そういう意味で、家族、友人の存在は、大きな支えになります。でも、すべてを押し付けることは出来ませんし、人の命も有限なものです。ところが、イエス様は、いつでも、そしていつまでもわたしたちと同じ舟に共にいて下さるのです。私たちの嘆きを、失うことへの怖れを聴き、共にいて下さって、最善の道を備えて下さいます。イエス様は、私たちの舟の中にいます。だから、気づきましょう。イエス様は舟の中で眠っている様に見えるときも、わたしたちの祈りを聞いてくださっているのです。そして、必要なことを備えて下さいます。ですから、一緒に舟の中にいるイエス様の方を向いて、そして怖れずに、イエス様を信じて従っていきましょう。イエス様に従えば困難がなくなるわけではありませんが、イエス様と共にいる安心があります。イエス様は、わたしたちのために十字架を背負ったままでおられる方です。ですから、わたしたちの重荷の全てをイエス様に預けてしまいましょう。その重荷をイエス様に預けた時、私たちはイエス様と共にある平安が与えられます。

『まだ信じないのか。』とイエス様は、問います。「早く信じる時が来るように」とのイエス様の導きですから、祈りの中でイエス様に話しかけてください。必ずそこに平安がやってきます。