ダニエル12:1-4

救い主と共に

2020年 10月 11日 主日礼拝 

『救い主と共に』

聖書 ダニエル書12:1-4       


 今日は、ダニエル書からみ言葉を取り次ぎます。このダニエル書は、キリスト教では預言書として、ユダヤ教では黙示文書(黙って示すと書いて黙示です)として、取り扱われています。1章から6章までが、神様に対して忠実なダニエルに起こる出来事や夢解き等が書かれています。後半の7章から12章は黙示文学といわれる、ユダヤ独特の文書となっています。黙示文学の目的は、神様によって与った預言を示すことなのですが、その謎めいた書き方から、直接的には「誰が何をする」と預言したのかは読み取れないのです。また、黙示文学は、一種の抵抗文学(権力に抵抗する者のための文学)と言われています。そのため、名指しされることもなく、きわめて象徴的な表現で書き表されるのが、特徴だと言えます。今日の聖書の箇所では、ダニエルが見た地上の未来や世界の終末を象徴した「幻」が書かれています。ダニエル書は、黙示文学としては初期のものですが、ダニエルが生きていたころには、(ダレイオス一世~BC486年 にダニエルは仕えている)黙示文学は生まれていなかったようです。実は、ダニエル書が書かれたとされる時代には、400年ほど後なのだそうです。ユダヤの黙示文学は、ペルシャの支配の時代が終わったころ、ギリシャ語を話すユダヤ人向けに始まっています。そのころ、ユダヤの国はシリアに支配されていました。そのシリア王(アンティオコス4世)によるユダヤの大迫害(BC167頃)が起こって、そこに抵抗したユダヤの民を励ますことを目的に、書かれたとされています。

私も、ダニエルの預言が、まるで歴史を目撃してきたかのように、当たりすぎているので、ダニエルが書いたという説よりは、シリア王による迫害の出来事が起こってから書かれたという説に、納得しているわけです。

 

 ダニエルは、バビロン捕囚の時にバビロンに連れてこられた人です。バビロンに連れてこられ、ネブカドネツァル2世に仕えました。バビロンは後にペルシャに支配されましたので、ダニエルもペルシャの王ダリヨス(ダレイオス一世)にも仕えました。ダニエル書の前半では、ダニエルが神様に忠実に献身していた様子が書かれています。そして、その信仰によってダニエルは「王様の見た夢を読み解く」ほどの力を、神様から頂いたことが記されています。また、その忠実なダニエルを神様は不思議な力を持って度々守ったことが記されています。そして、ダニエル書の後半は、神様が与えられた 「幻」をダニエル自身が見たと言う記録です。今日の聖書箇所は、終末とイエス様が来られることを預言していると言われています。

 

 さて、大天使長ミカエルですが、ミカエルとは「神に似ている者」を意味しています。彼は「偉大な王子」と呼ばれ、ユダヤの民を救うために戦いに来ています。この時大天使長ミカエルは、ペルシャの天使長と戦っていたのです。そして、今日の聖書の箇所からいえば、ギリシャの天使長と戦っているわけです。国と国の戦いでは、「神の使い」が最前線に立つのが、ダニエル書に書かれている世界観です。ここに出てくる大天使長ミカエルとは、神に代わってユダヤの民と共に戦うために、ダニエルの見た「幻」のなかに現れたのです。

今日の聖書の背景は、ダニエル書11章に書かれています。短く説明しますと、南と北の大国が生まれ、南が優勢だったのが、ついに北の王が優勢になったと書かれています。南の国とはギリシャ人の支配する(プトレマイオス朝)エジプトを指し、北の国はギリシャ人の支配する(セレウコス朝)シリアのことです。

当時ユダヤは、エジプトの支配下で平和だったのですが、シリアがたびたび攻めてきました。ユダヤは、結局シリアの支配下になってしまい、略奪や迫害を受けていたのです。史実から説明しますと、シリア王(アンティオコス4世)はユダヤ教の祭儀を禁止し、律法を守ろうとする人々を殺し、エルサレム神殿にゼウス像を建てて神殿を冒涜したのです。ですから、ユダヤの民は、シリアすなわち北の国の王の終わりの時が来ることを望んでいたのです。

ダニエルが幻で見た大天使長ミカエルは、そのような困難のときに現われることを示していたのです。ダニエル書の著者は、「救い主が来られること」を「幻」から読み取ります。そして、「救い主が来られること」を待ち望んでいるのです。なぜなら、ユダヤの民は、かつてない迫害や困難の中にあったからです。

シリアの迫害のただなかにありながら、ユダヤの民には希望がありました。「その時には、神様の永遠の命が得られる」と強く信じて希望を持っていたのです。ですから「信仰のために苦難を受けても、『その時』には主の栄光に与る」 と強く信じ、そうなる事を願っていました。「『その時』が来れば眠りから覚まされ、永遠の生命に与る」と信じて、迫害に耐えてきたのです。そして、『その時』とは、救われるとき、死からの復活のときです。ここには、ダニエル書の著者の願望が強く表れていると思います。

ユダヤの民は、ギリシャの神『ゼウス』を拝まなければ、迫害されました。もし、信仰を捨て、ギリシャの神『ゼウス』を拝めば、神様を裏切ったことで、恥と憎悪の的になるのも明らかです。どちらを選んでも、明日に希望を持てるような状況ではありません。

ユダヤの民は、「信仰によって苦難を受けたのだから、永遠の命があたえられないはずがない」というような強い信念を持っていたのだと思います。ゼウスではなく唯一絶対の神様を選んだのです。

 

12:3目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。

ダニエル書の著者は、このように記しました。この様に励ますことで、ユダヤの民が希望の灯を絶やさないよう強く願って、ダニエル書は書かれたのです。

 

ダニエルの生きた時代は、バビロンの支配から、(メディアの支配、)ペルシャの支配の時代です。しかし、今日の聖書の箇所は、それ以降を預言したものになります。ペルシャを征服したアレキサンダー大王。このアレキサンダー大王が亡くなると、エジプト、シリア、マケドニアの3国に(小アジアのフィレタエルス王朝は割愛)分裂しました。この時代から、ローマの支配までを預言しています。

今日の聖書の箇所の時は、史実としてシリアはエジプトからユダヤの地方を奪って、支配していました。そして、次第にシリアはエジプトを征服しようとするほど強くなっていきます。

そこで、エジプトとシリアがあわさった巨大な国ができるのを問題にしたローマは、エジプトを応援してシリアと戦います。そのため、シリアはローマに負けてしまいます。するとその賠償金がシリアの王(セレウコス4世)にかけられました。その賠償金のツケは、結局ユダヤの民に回ってきます。

シリアの王は賠償金支払いのため、エルサレム神殿の財宝略奪を図るのです。そしてとうとう、シリアはエルサレムの神殿を力ずくで奪ってしまいました。そのとき、ギリシャの神『ゼウス』が神殿に置かれました。そして、『ゼウス』を礼拝するよう強要したのです。礼拝しない者には迫害が待っていました。それがもとで、(紀元前167年になると)マカバイ家(マカベウスのユダ等)による反乱がおこってしまいます。当時は、シリア王(アンティオコス4世)による、ユダヤへの迫害がひどかったためです。

 

ダニエル書は、このようにシリアの国に支配され、迫害を受ける中、神様への信仰を保ちながら、シリアの王に抵抗をしているときに書かれた黙示文学なのです。ダニエル書には、シリアは第三の獣の一部としてこのように書かれています。

ダニエル『7:6 次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。背には鳥の翼が四つあり、頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた。

 豹は、アレキサンダー大王が作った帝国を指し、その四つの羽と頭は、アレキサンダー大王の家臣4名(エジプトを支配したプトレマイオス朝であり、シリアを支配したセレウコス朝そして、アンティゴノス朝マケドニア、小アジアのフィレタエルス王朝)を指します。このうち3名がシリア、エジプト、マケドニアの大国3国に居座って、それぞれの国を自分のものにしました。そして、すぐに滅びていったのです。

 

幻の中の天使は、ダニエルに言います。

ダニエル書『12:4ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。』

 

それでも、ダニエルは「いつまで迫害が続くのか」つまり「終わりの時はいつか」を知ろうとして幻を見続けようとするのですが、天使から「封じられている」と注意を受けます。まだ、イエス様の時が来ていなかったからです。それに、イエス様が来られてもなお、その時がいつ来るのかは、私たちはわかりませんので、「封じられている」と言えるのでしょう。

このダニエルの見た幻には、第四の獣(これはローマを現していますが)もいたわけですから、ローマに支配される時代にも、大迫害があるということは、預言されていたと考えて良いでしょう。そして、ダニエル書の著者は、「幻」を通して、救い主を待ち望んでいます。そして、その救い主が「迫害で死んだ人たち」を復活させることを預言しているのです。

復活については、新約聖書の登場を待たなければなりません。また、聖書を読んでも、終わりの日が何時なのかについても書いていません。そもそも、ダニエル書の「幻」の中で天使が語ったように、「封じられている」のです。

 

未来のことは私たちには分かりません。だから私たちが為すべきことは与えられた今を精一杯生きることです。ところが、「終わりの時が来る」ことを知ると、精一杯生きても、仕方がないとの考えを持つ人が出ます。パウロが伝道していたころも、「もうすでに終末が来た」と考える人がいました。「終末が近いなら何をしても意味がない」として働こうとしない人々をパウロが戒めた記事が、テサロニケの信徒への手紙に記されているくらいです。(テサロニケ2:1-3:13まで参考) 

そういう意味で、「いつまで迫害が続くのか」と言うダニエルの疑問は、たしかに封印する必要があるのです。そして、何も知らない方が、今を精一杯生きる事ができます。

 

精一杯生きる。そして、その生きた結果が豊かに祝福されたいです。今日の聖書の箇所は、この世の終わりとイエス様が来られることを預言していると言われています。ダニエルの時代と違い、現代に生きる私たちは、私たちを導いてくださるイエス様のことを知っています。将来のことを正しく予想することができないのは、ダニエルの時も今も変わりがありません。しかし、救い主のことについて私たちはより具体的に知っているのです。私たちは、イエス様のみ言葉も聞いていますし、私たちの中でみ言葉が生きているのです。イエス様が来られる前は、ただ手がかりもなく、救い主を待ち望むしかなかったのでしょう。そして、救い主はどんな方かもわからなかったのです。しかし、私たちはイエス様を知っています。イエス様が地上で活躍されていたころ、多くの人を癒し、そして寄り添ってくださいました。そして、私たちの罪を許すために十字架にかかられました。私のために、私に代わってイエス様は十字架の上で死なれたのです。そこまでして、私たちを愛してくださるイエス様を私たちは信じて、バプテスマを受けたのです。そして、イエス様は私たちに聖霊をお使わしになって、私たちに働きかけてくださいます。ですから私たちはインマニュエル、主が共におられることをいつも身近に体験しているのです。大変感謝なことです。しかも、イエス様は、私たちが何も言わない前から、私たちの求めているものをご存じです。そして、私たちに寄り添って、共に歩んでくださるのです。

ダニエルには強い信仰がありましたが、私たちにはイエス様がいます。私たちには、ダニエルのような強い信仰はないけれども、イエス様を信じ、信頼しています。イエス様は、私たちと共にあって、平安が与えてくださるのです。終わりの時もイエス様は共にいてくださるでしょう。私たちは、イエス様に何事もゆだねてしまっていますから、むしろ心配はないのです。イエス様をこの世に降してくださいました神様に感謝し、そしてイエス様を受け入れたことによる恵みを、周りの人々と分かち合っていきましょう。