マタイ22:1-14

 「婚宴」のたとえ

 

1.婚宴に相応しい人・相応しくない人

 

招いた人々:無視、家来が来て招いても無視、家来を捕まえて乱暴

見かけた人(善人も悪人も):礼服を着ていない者

                 礼服を着た者

 

 婚礼に招かれた人々は、その国の要人か、友好国の要人という事になるでしょう。普通の国ならば、要人は必ず王子の婚礼に出席しますし、友好国の要人もそれなりの理由が無いのに、婚礼に出ないことは考えられません。しかし、彼らは催促をしても来なかったのです。それどころか、その使いに来た家来に乱暴までしてしまいます。当然、この婚礼に招かれた人々は「婚礼に相応しくない」のです。お祝いをする気がないわけですし、黙って欠席するとか、特段の理由が無いのに欠席するというだけでも、著しく礼を失することです。


一方で、見かけた人に家来が声をかけて婚礼の席をいっぱいにしましたが、礼服を着ていないのでは、礼を失してしまいます。なにか事情があったかと思って聞いてみると、だんまりでは、それも礼を失した態度です。何も考えなかったのか、考えがあってのことなのか、どうでもいいと思っていたかわかりませんが、お祝いをしようとする気持ちを伝えていないのは、残念な態度だと言えます。しかし、相応しくないからと言って暗闇に放り出すのは、普通の国ではあまり考えられないでしょう。

 

2.招かれた人

 

 招かれた人は、どんな人だったのでしょう? この箇所の前のぶどう園の主人と、農園を借りている農夫たちの話がありました。その流れを汲むと、先に招かれた人はファリサイ派の人々や律法学者です。そして、その後に招かれた、通りがかりの人々は、一般の市民という事になるでしょう。

 

 そして、この後から招かれた客が与ったのは、婚礼のごちそうです。これは、福音の恵みを指していると考えて良いです。こうして、多くの人が福音に与ったのです。しかし、中には、婚礼用のローブを着ていない人がいました。婚礼用のローブとは、信仰によってキリストの「義」を着ていることをたとえたものです。すなわち、福音のごちそうに与ろうとして、信仰のない者(偽善者)がなかに紛れ込んでいたというたとえなのです。

 

 また、もう少し大胆な考えがあります。神の国に最初に招かれていたのは、イスラエルの人々だと考えるわけです。ですから、乱暴を受けた家来とは迫害を受けた預言者たちという事です。そして、後から招かれたのは、異邦人です。そうして神の国に集まる人は大勢になりましたが、偽善者が紛れ込んでいると言うのです。つまり、ユダヤ人も異邦人も善人も悪人も、そして偽善者も、すべての人が神の国に招かれたのですが、福音のごちそうに与るにふさわしい人は必ずしも多くないのです。

 

3.キリストを着る

 

 キリスト教の信仰を持つ人々は、キリストを信じて生き、すべて主イエスを基準に置く人々です。そして、その人々は、キリストと言う、神の国の結婚式に相応しいローブを着ています。キリストの義は、神の国に入るには必要です。生まれながらにして、その結婚式のローブは持っているわけではありません。しかし、だれでもキリストと言うローブを心の中に形成することができます。しかし、福音の儀式(王子の結婚式)に侵入し、福音のごちそうに与ろうとする偽善者もその婚礼に招かれています。しかし、キリストを着ていなければ、その婚礼に居続けることができません。王様である神様が、その人を取り除く時が来るからです。


『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。』のです。