コリントの信徒への手紙一10:23-33

良心に信頼して


1.パウロの逡巡

 遇像崇拝の問題は、第一に自分の願いを叶えるために、神々を従わせようとしていることです。第二に、真の神以外のものに心を向けることで、神様に背くという罪です。偶像の神々は、どうせ手で作った物なので、偶像に備えた食べ物を食べても何も起こらないとパウロは言いました。しかし、それを見た信徒たちがどう思うかを考えると、パウロは今後偶像に備えた物を食べないと宣言していました。さらに、少し経つと、「偶像に供えた食べ物を食べると悪霊とつながる」と言い出します。何か矛盾しているように感じます。多分、こんな意味ではないでしょうか?。偶像は、物質だから何も作用しない。だから、食べ物を変化させる力はないので、偶像に備えた物を食べても、なんら影響はありません。これは、身体的にという意味です。しかし、精神的にはどうでしょうか?自分の中に住んでいる、サタン(悪霊)は、偶像に備えた食べ物を食べた時に、働きだすのではないでしょうか? 神様とのつながりが、物質でしかない偶像に備えた食べ物をたべたばかりに、壊れるのです。主の晩餐の一つのパンで、クリスチャンがつながっています。そこに、偶像に供えた食事を食する人が入ったら、一つのパンを分かち合うことで一体となったクリスチャンに分断が起こるでしょう。そして、これらのことが、結果的に私たちを悪霊と繋がらせてしまうのだとパウロは言いました。そのことを踏まえて、「偶像に捧げた肉を食べること」についてパウロは語ります。

 私たちは、クリスチャンとしてするべきことと、するべきではないことをどのように見分け、判断すれば良いのだろうか?

2.すべてのことが益となるわけではない

 偶像を崇めることがよくないことはよくわかりました。しかし、偶像の神々は存在しているわけではありません。そうであるならば、偶像に捧げたものを食べることに関しては、問題がないのではないか?

パウロは、そのことについてこのように書いています。

『10:23 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。10:24 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。10:25 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。』

 私たちクリスチャンは、自由な存在です。私たちは律法に捕らわれる必要はありません。また、偶像に関しても同じで、偶像に対して捕らわれる必要はありません。しかし、「何をしてもいい」ということと、「それが益になることかどうか」は別の話です。パウロは、「悪くない」ことではなく、「良いことを」しかも、「自分にとって良いこと」ではなく、「他の人にとって良いこと」を求めなさいと教えています。これは、私たちクリスチャンにとって大切な基準であります。

3.良心が優先

 市場に売っている肉が、実は偶像に献げられた肉だったりするかもしれません。しかし、そんなことを気にする必要はあるのでしょうか?。

 肉を販売したり、振舞っている人が、「この肉は○○という神々に献げた肉なんですよ」と伝えたとしたらどうでしょうか?

 良心に従ってとは、「何も告げずに肉を提供された場合」と「偶像に供えた肉だと伝えて肉を提供された場合」では異なります。ただ、誰の良心かと言ったら、肉を提供した人の良心であります。ですから、何も告げられずに出された肉は、「偶像に供えた物ではない」と相手の良心を信用して食べればよいのです。仮に偶像に備えた肉であっても、物質としては何も変わりません。しかし、「偶像に供えた肉」だと言って提供された場合は、その配慮(良心)を尊重すべきであります。偶像に備えた物など食べたくないと思っている人がいることを知っていて、そのしたくないことをさせないように配慮しています。ですから、その人の良心に応えたいですね。だから、その肉は食べてはならないとパウロは言いました。これは、知らなかったら、何でもOKという意味ではありません。知らされなかったら、相手の良心を信頼して、出された肉を食べる。知らされたら、教えてくれた相手の良心に敬意を表して、出された肉を食べてはいけない。つまり、あなたの気持ちの話ではなく、相手の気持ちを尊重する事であります。もし、相手が出した肉について詮索したり、偶像に備えた物だとの忠告を受けながら食べたならば、信仰以前として、人間としてどうか?と思われます。

4.すべてのことを神の栄光のために

『10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。』

「神の栄光を現す」というのは、私たちの言動を通して、神様を証しするということです。その目的は、神様の素晴らしさを、一人でも多くの人たちに伝えるためです。私たちは、聖書のことを話さなくても、神様の栄光を現すことができます。仕事を通して、子育てを通して、食事を振舞うことを通して、一緒に遊びに行くことを通してでも、神様の栄光を現すことができるのです。私たちの栄光を現すのではなく、私たちは、神様の栄光を現したいのです。