ルカ10:25-42

主を愛しなさい

2020年 8月 16日 主日礼拝

『主を愛しなさい』

聖書 ルカによる福音書 10:25-42           

 今日は、ルカによる福音書から「行うことと聞くこと」についてのお話です。

今日の聖書の箇所には、2つの話題があります。一つ目は『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」』と律法の専門家がイエス様を試すことです。この内容は、マタイ(22:34-40)、マルコ(12:28-31)にも書かれていますが、ルカの場合は、「善きサマリア人」のたとえ話が付け加えられています。そして、二つ目はマリアとマルタのお話で、これはルカによる福音書にしかないものです。福音書の記者ルカが、この二つの話を並べて書いた結果、イエス様は、選ぶことの大切さを語っていることがよくわかると思います。

 

 さて、舞台はサマリアです。ガリラヤ湖の北側にあるベトサイダで5000人の給食のしるしをされたイエス様が、十字架の時が来ることを悟って、山に登って祈り、そしてサマリアを通ってエルサレムに向かう途中でした。そこでは、イエス様を受け入れてくれない村があったりしましたが、イエス様を受け入れた村々では、様々なしるしが行われました。そこで、律法の専門家がイエス様を試そうとしたのです。

 先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。この問いに対して、イエス様は逆に質問します。

律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか


 そもそも、その律法の専門家がユダヤの律法を知らないわけがありません。また、律法をもとにどのように生きたら良いかを教える立場です。「何をしたらよいか」をイエス様に聞くまでもないことなのです。ですから、福音書はイエス様を試そうとしたと書いているわけです。

当然のように、その律法の専門家はきちんと答えられます。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。(申命記6:5 レビ19:18)とすらすらと答えると、イエス様は

正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。と言われました。困ったのは律法の専門家です。「答を知っているなら、なぜ実行しないのか?」と言われたと思ったのでしょう。さらに、試そうとしていたことを見透かされているので、とっさに、では、わたしの隣人とはだれですかと聞き返して取り繕いました。この質問から、律法の専門家の心の内が読み取れると思います。第一に、「わからないから聞いている」という立場を崩さないけれども、実際は教えを受ける気が無いこと。第二に「隣人が誰かわからないから、という理由を付けて、隣人を愛する行動をとっていないことを正当化」していることです。これが、本当だとしたら、「永遠の命を受け継ぐ」ための知識を持っている律法の専門家なのですが、それを「行う」ことに問題があります。そもそも「行う」ことを、「求め」ていないこと、そして「できない理由」が、すぐに頭に浮かんでくることです。これでは、いつまでたっても「行う」事はできないでしょう。


 この言い訳を聞いたイエス様は、「善きサマリア人」の譬えを話されました。そして、祭司とレビ人とサマリア人のだれが、その追いはぎに遭った人の隣人かを律法の専門家に聞きます。誰が答えても、「サマリア人」なのです。本来尊敬を集めるべきな祭司やその一族のレビ人は、何もしなかっただけではなく、道の向こう側を通りました。祭礼を行う人達は、身が穢れては仕事にならないからです。つまり、追いはぎに遭った人を助けることよりも、身が汚れないことが大事なのです。一方、サマリア人はユダの人からは、異教徒として軽蔑されていました。異教徒は、祭礼上は穢れた者ですが、その穢れた者の方が救いの手を差し出してくれました。追いはぎに遭った人に手を汚して助けてくれましたし、そのために時間とお金という犠牲を払ってくれたのです。祭司やレビ人は、まったく何も犠牲にしないことを選んだのとは、大違いです。この譬えは、イエス様からの痛烈なメッセージです。祭司とレビ人は、この律法の専門家のことを指しているからです。律法の専門家は自分の仕事の名誉が大事であって、手を汚すことは考えつかないのです。ですから、隣人を愛することは、知識として知っているのですが、「行う」ことはなかったのです。このように痛烈に言われてしまった律法の専門家は、追いはぎに遭った人の隣人となったのは、「その人を助けた人です」と返事をするしかありませんでした。律法の専門家は、その人の隣人となろうとしなかった祭司とレビ人と同じである自分に気が付いたのでしょう。もう、体面を繕うため質問を続けることはしませんでした。イエス様は、イエス様の言葉を受け入れた律法の専門家に、こういいます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


 この律法の専門家に欠けていることは、「行うこと」です。どんなに頭が良くて、良く学んでも、そして、どうしたら良いかと考えても、それだけでは「隣人を愛する」ことには、近道ではありません。むしろ、どんなに低く見られている人であっても、何のとりえもなくても、手を汚して助けることを「行うこと」が「隣人を愛する」ことに近いのです。しかし、「行うこと」は身についていないと簡単ではありません。無意識の中で「行わなくてよい理由」で打ち消されやすいのです。

 

 この善きサマリア人の物語のすぐ後に、エルサレムにほど近いべタニア村での、マリアとマルタの物語があります。この物語も有名なので、細かい説明はいらないでしょう。姉のマルタは、イエス様を家に迎えて接待をしています。ところが、妹のマリアは、イエス様の話ばかり聞いていて、さっぱり手伝いません。マルタは、足を洗う手伝いや台所仕事などマリアが手伝わなければならないと思ったのでしょう。イエス様に、マリアに手伝うように言いつけます。しかし、イエス様は、マルタの期待とは逆の言葉をかけます。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


 マルタは食事の準備で頭がいっぱいでした。そして、マリアは、同じようにイエス様の話に聞き入ることで頭がいっぱいでした。イエス様は、その両方を満足させられないことを理解したうえで、マルタに対して、「食事は、遅れてもいいから、そんなに焦らなくてもよいよ。マリアは学ぶことを選んだので、今は手伝わせないで」と言ったのだと私は考えています。なぜなら、マリアはイエスの弟子だと思われるからです。当時のユダヤ教の教師ラビは、女性がひざまずくこと、すなわち「女性の弟子」を認めなかったのです。それが、イエス様の場合は、女性が弟子たちの仲間に加わることを問題としていませんでした。さらに、マリアは主の足元に座っています。明らかに弟子の態度です。そういう背景を考えると、マルタの常識から手伝うように言っているものの、少し無理なところがあったと考えてよいでしょう。弟子たちの学びを助けるための食事です。その食事のために、熱心な弟子を手伝わせることは、考えにくいです。そのことをイエス様は、マルタに言ったようです。しかし、マルタを責めるのが目的ではない事は明らかです。イエス様は、善きサマリア人の物語では、律法の専門家に対して「行って、行う」ように言われ、マルタとマリアの物語では「座って、聞く」ように言います。良い選びは、自分のための選びと、隣人のための選びがあると考えていいでしょう。律法の専門家は、明らかに「自分のための選び」によって「行って、行う」ことが出来ていませんでした。マルタは、「自分のための選び」によって、「座って、聞く」機会をマリアから奪おうとしました。そして、マリアは、「自分のための選び」によって、マルタの手伝いを「行って、行う」ことをしませんでした。そして、「座って、聞く」ことを選んだのです。


 ところで、隣人という視点で見ると、マルタもマリアも「善い隣人」になろうとした判断ではなかったことになります。マルタは、マリアの学ぶことを良しとしなかったし、マリアはマルタを手伝おうとしなかったからです。

 

 イエス様は、律法の専門家に「善い隣人」になるように「行って、行え」と譬えで説明したその直後の物語で、マルタとマリアに「善い隣人」となるように「行って、行え」とは言いませんでした。マルタには、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と、イエス様は言われます。つまりマリアには、「座って、聞く」ように指示したわけです。


 さて、イエス様は、この二つの物語の中で、一貫性がないことを言われているのでしょうか?「隣人を愛する」ことは、時と場合によって、第一番目ではないということなのでしょうか?

また、「行って、行う」と「座って、聞く」という全く逆の選びです。選びの難しさとは言え、その結果はまるで違うものになってしまいます。私たちは、善い方を選びたいですが、イエス様はそのためのヒントをお示しになっていると思い、探してみました。意外なことに、律法の専門家の口を通して、この言葉つまり第一の掟と第二の掟が示されています。

 

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』

 

「善きサマリア人」の物語では、「隣人を愛せよ」がテーマとなっていっますが、第一の掟には触れていません。それが、マリアとマルタの物語になると、第一の掟が第二の掟に優先する物語が、書かれていることに気づかされます。ですから、第一に神を愛しなさい。そのためには「座って、聞く」事、イエス様の言葉を聞くことが必要です。第二に隣人を愛しなさい。そのためには、「行って、行う」事、行動をすることが必要です。そのように私は読み取りました。

 

 マリアが座ってイエス様の教えを聞いたように、主を愛しなさい。これが、イエス様からの第一のメッセージなのです。