使徒7:44-50

 神様の憩う場所

2024年 24日 主日礼拝(平和礼拝)

神様の憩う場所

聖書 使徒言行録7:44-50

 今日の聖書は、ステファノが訴えられた記事からであります。その訴えとは、このようなものでした。

『6:14 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」』

ステファノは、この訴えに対して弁明することになります。それは、明らかに信仰の証しでありました。


 ステファノが訴えられたもともとの原因は、イエス様のこの言葉であります。

ヨハネ『2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」』


ステファノは、最初に選ばれた執事七人の一人です。イエス様が復活した後、弟子たちは、エルサレムで活動を続けますが、アラム語を話す弟子たちとギリシャ語を話す弟子たちがいて、ギリシャ語を話す弟子たちへの配給に問題があったようです。そのためにステファノは、ギリシャ語を話す弟子たちの代表として執事に選ばれています。彼らギリシャ語を話すユダヤ人は、ローマ皇帝からローマを追われて、ユダヤの地に戻ってきた人々です。その経緯はこのように使徒言行録に書かれています。

使徒『18:2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。~』


 当時、ローマ帝国は、皇帝を神として礼拝するように命令しました。当然、ユダヤ人は皇帝を礼拝することを拒否します。何度も何度も、ユダヤ人は頑なに断ったのです。そのために、皇帝に敬意を払わない人々として、ユダヤ人はローマから追い出されました。それで彼らは、ユダヤに帰って行きました。しかし、ギリシャ語を話し、母国語を話せないユダヤ人としては、ユダの地は異国の地同然でした。そもそも、ローマを追われてきていますから職はありません。それで、配給される食事に頼っていたわけです。そんな中、どうしてもギリシャ語を話すユダヤ人たちにいきわたらないため、執事が立てられました。十二弟子は宣教に専念したいと言うことで、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人が執事に選ばれ、日ごろの世話をすることになったわけです。その一人がステファノです。また、ステファノは宣教も担当していたようです。この時執事に立てられたのは、七人で、みんなギリシャ語を話す人です。そのころのキリスト教徒は、アラム語を話す人々と、ギリシャ語を話すユダヤに戻ってきた人々がいます。執事は、ギリシャ語を話す群れのリーダであり、そしてギリシャ語で教える説教者でもあったと思われます。その中心的な存在であったステファノは、ユダヤ教との軋轢の矢面に立たされます。と言うのは、キリスト教のなかでギリシャ語を話す群れが、迫害の対象となっていたのです。一方で、イエス様の弟のヤコブと使徒たちは、迫害を受けていませんでした。つまりステファノは、迫害対象となってしまったギリシャ語を話すキリスト教の群れにあって中心人物であったわけです。もちろん、人々に人気のある使徒に手を出すことは憚れたことから、執事を糾弾するのが一番やりやすかったのだとも言えます。そういうわけで、ステファノは、キリスト教の代表として矢面に立たされたのです。

 さて、今日の聖書の箇所は、神殿についてです。そもそも、神様は神殿に住むようなお方ではありません。しかし、モーセを通して神様は事細かに指示して、幕屋を作らせました。エジプト脱出のとき、神様が共にいることを示すためだったのでしょう。人々と一緒に移動できるように、神殿は幕屋でした。それは、カナンの地に定住するまでは、最もふさわしい形です。幕屋は、ダビデ王の時、エルサレムに移されます。そしてソロモン王の時、神殿は建設されたのです。しかし、その神殿は、バビロン捕囚の時壊されてしまいます。時がたってイエス様の時代には、再建された第二神殿がありました。この神殿は、イスラエル民族にとって、民族の誇りであり、国の象徴であります。

『7:48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。』


これは、列王記上からのソロモンの祈りの引用です。

列王上『8:27 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。』

また、「天はわたしの王座、地はわが足台」については、イザヤ書の引用です。

イザヤ『66:1 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。66:2 これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。』


 イザヤが預言しました。また、ソロモンが神殿を立てた時、しっかりと神様に向き合っていたと言えます。それが、イエス様の時代には、神殿という建物とそこで行われる儀式を つまり「目に見える権威」を重要視するようになってしまいました。そのため、目に見えない神様、建物に住むことのない神様であることを見失ってしまったのです。

 私たちの教会も、この会堂を献堂して46年を超えているようですが、会堂は、確かに教会そのものの様に見えます。しかし、建物は大事ですが、信仰の対象ではないですね。建物は、不完全な人間の作った物であります。礼拝を捧げるための場所であり、伝道のために用いる拠点として、神様の御用に用いる物です。一方で、神様の住まわれる場所は、神殿や会堂ではないのです。神様は建物には住まないからです。神様の住まわれるところとは、先ほど紹介したイザヤ書の通りなのです。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者」このように、神様のお住まいは、きらびやかだったり、厳粛そうに見える儀式が行なわれたりする神殿ではありません。「へりくだって、心砕かれ、神様の前でおののく者の心」に神様は住むのであります。 ステファノの、真理に満ちた言葉は、残念ながら頑なな人々には届きませんでした。そして、却って彼らを怒りに追いやってしまいます。ステファノはこの宣教の直後、石打ちの刑で殉教してしまいます。


 以上が、私たちの心に神様が住まわれるとのステファノの証しでありました。全世界を治め、天におられる神様ですが、礼拝しているこの私たちの中に、今もおられるのです。そのことを、憶えて、感謝しましょう。また、私たちがこの会堂から出た後でも、私たちの心に神様は宿っておられます。このことに、感謝を持って一週間を神様とともに送りましょう。「私たちは生ける神の宮」なのです。神様はこう言われました。

Ⅱコリ『6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。』

この言葉は、神様の言葉でありまして、先ほどのイザヤ書をはじめ、レビ記、出エジプト記で語られたものです。

レビ『26:11 わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。26:12 わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。』

出エジプト『29:45 また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。29:46 彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。』


 神様の住まわれるのは、私たちの心の中です。決して教会という建物に神様は住むわけではないのです。しかし、私たちは礼拝堂で礼拝を捧げますから、入れ物としての礼拝堂は必要ですし、伝道に用いなければなりません。例えば、立派な会堂を建て、その姿を誇ったとします。それ自身に何の害もありませんが、立派な会堂があれば、そこに神様がいてくれるわけでもありません。また、会堂が権威を表すのはおかしいですね。 かの、マルチン・ルターは、「九十五か条の論題」で、ローマ教皇が罪を赦すのはおかしいなどとの議論を示しました。これは、ローマ教皇の権威を利用して、「罪を赦す」ことができる? としたことへの疑問からの議論です。このころ、「罪を赦す」との書きものを、ローマ教皇が売っていたのですね。今は、贖宥状と呼ぶそうですが、免罪符のほうがわかりやすいと思います。ローマ教皇が神様の権威を詐称して、金儲けをしているわけですから、とんでもないことであります。それにいかに教皇といっても人です。人に罪を赦す権威は与えられていません。教皇だけではありません。教会には、他にも権威を誇示する、第一人者がいたり、人の作った物があったりするわけですね。そういったものは、時として害になります。なぜなら、教会に必要なものではないからです。教会であるための条件を考えてみてください。二人以上の人が集まって、神様に礼拝を捧げるのであれば、それで十分教会なのであります。しかし、人は目に見える権威が好きですから、いろいろ付け加えるわけですね。まず、十字架、説教台、バプテストリー、主の晩餐のテーブルは、礼拝堂として必須となっています。十字架は、イエス・キリストの犠牲による私たちの救いを象徴していますし、み言葉を語る事は、福音伝道の中心的な役割であります。バプテスマ、そして主の晩餐式は、キリスト教の大事な礼典でありますから、専用の設備があるのが普通です。これらは、礼拝堂には必須とも言える設備でありますが、豪華である必要もありませんし、高いところから話をする必要もありません。しかし、人間は罪深いですから、神様の権威を借りて高いところからお話をしたがります。これは、イエス様の生き方と真逆であります。イエス様は、最も低い者に寄り添いました。教会はイエス様の生き方を見習いたいですね。そして神様を礼拝しに二人以上の人が集まれば、他に何もなくても、教会なのであります。そして、そこにこそ神様がおられるのです。心から神様を礼拝するならば、神様はそこに憩いに来ます。そこに必要なものは、何もありません。ピアノもオルガンも賛美も説教もなくても、二人以上が集まって祈れば、それは礼拝です。また、その場所は心の中の教会となり、神様が憩いに来る場所なのです。

 ステファノは、命がけでこの証をしました。ステファノは神様以外に権威を認めませんでした。自らを権威者としていた律法学者やファリサイ派の人々。この人たちは、「自分の権威という偶像」を礼拝しているように見えます。もし、そうであるならば、神様は憩いに来ません。ですから、神様だけに権威を認め、そしてイエス様を通して心から神様に祈りましょう。その祈りこそが、祈りあう人々の心のなかを教会にします。それこそが神様が憩いに来られる場所なのです。