マルコ14:1-9

今できることを

2022年 9月 25日 主日礼拝

今できることを

聖書 マルコによる福音書 14:1-9           

 今朝は、マルコによる福音書のナルドの香油の物語から み言葉を取り次ぎます。イエス様は、エルサレムに入城されたあと、ベタニヤ村のマリアとマルタの家に泊まりました。(ヨハネ12:1ヨハネによる福音書によると、過ぎ越しの祭りの6日前)今日の聖書の個所を見ると、過ぎ越しの祭りの二日前になって、祭司長たちがイエス様を殺そうと考えていることがわかります。それも、計略を用いて、罠に陥れようと言うことですが、群衆が大勢エルサレムに集まっているときにそれを実行したら、騒ぎが大きくなるという判断で、過ぎ越しと除酵祭が終わるまで、無理はしないことになりました。そういう、緊迫した背景、イエス様に具体的に死が迫っていたという事があっての、ナルドの香油の物語であります。


 もともと、イエス様の一行がエルサレムに近づいてきたとき、イエス様はこれから起こる出来事を弟子たちに説明していました。

マルコ『10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」』


 弟子たちは「驚き、そして恐れ」ました。ところが、イエス様は大群衆に盛大に迎え入れられて(マルコ11:8,9) 、弟子たちは安心してしまったのかもしれません。イエス様がエルサレムに入城すると、イエス様は宮清めをしました。神殿から商売人を追い出したのです。祭司長、律法学者、長老たちは、イエス様を陥れようと悪意のある質問をしますが、そのたびにやりこめられました。その様子を見て、群集はイエス様の言葉に驚きました。イエス様に神様の知恵と権威を群衆は認めている様子に、祭司長たちが手を出すことはできません。ところが、イエス様から「ブドウ園の主人」の譬え話を聞かされ、祭司長たちは、憤りました。祭司長たちを「主人の長子を殺してしまった農民」に譬えからです。その意味するところは、「祭司長たちはイエス様を殺す」との予告であり、またイエス様が神の子であるとの宣言でもあります。そういう緊迫した中、いよいよ、十字架の時が迫ってきていたのです。

 ベタニヤ村での会食の直前には、このようなやり取りがありました。ですから、会食の席にはふさわしくない「埋葬の準備」という言葉が、突然のように出てくるのです。


 この時イエス様が訪れた場所は、「らい病人シモンの家」と言われています。これは、マタイとマルコの福音書で共通です。(ヨハネでは、ラザロや、マルタ、マリヤの名をあげている)ヨハネは、12弟子としてイエス様と行動を共にしていた唯一の福音書記者ですから、詳しく知っていたのでしょうか、それとも、意図してマタイやマルコでは名前を書かなかったのかはわかりません。らい病人シモンが、マルタ、マリヤ、ラザロの父だったらすべてつじつまは合いますが、それを裏付ける資料は、無いようです。


 さて、ナルドの香油は非常に純粋で高価であると言われています。試しに、ネットショップで調べると10ccで一万円もします。純粋なオリーブ油にスパイクナードという良い香りのする香料を入れたものです。

ヨハネ12:3には1リトラと容量が書かれています。326g相当ですから、約400cc

ですね。単純に計算すると、ナルドの香油の入った石膏の壺は、現代の価格で40万円と言うことになります。機械を使って大量に純粋な油を生産できる現代においてもかなり高価なのですが、手作業で作ったこの時代です。300デナリ(約240万円~300万円)と大変高価です。もちろん王侯貴族や富裕層の女性しか使えないような物であります。それなのにこの女は高級品を持っていたわけです。私たちには理解しにくいのですが、じつは、古代イスラエルでは、ナルドの香油を女性が持っているのは、普通の事だったのです。娘が生まれるとすぐに、両親はナルドの香油を手に入れる計画を立てます。娘が将来結婚する時に使うからです。この香油は一般の人の年収に相当するほど高価なものですから、両親は年月をかけてお金を貯めます。そしてようやく手に入れた香油は、娘の宝となります。ナルドの香油は親から娘への最高の贈り物だったのです。つまり、大事な嫁入り道具として持っていた香油なのです。


 ナルドの香油の石膏の壺には蓋がありません。ですからこの女は壺を壊してしまって、香油をイエス様の頭に注ぎました。なんとも大胆な行動です。さて、この女はなぜそのようなことをしたのでしょうか。


 ヒントは、イエス様の言葉にあります。イエス様は、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と言いました。たしかに、ユダヤでは埋葬するときには、没薬という香料を入れた油を塗る習慣があります。この女は、その習慣に従ったのでしょうか?・・・とは、言っても、頭の上で香油の壺を壊して、すべての香油をイエス様に注いだのですから、あまりにも唐突で驚くしかありません。また、この女は間近に迫っているイエス様の死を知っていたのでしょうか?。むしろ、イエス様が語った死と復活の予告を、多くの弟子たちは受け入れなかったのに、この女だけは信じたのでは と思われます。 どちらにしても、12弟子たちは、イエス様の予告にただ恐れ、イエス様に尋ねることすらしていなかったのに、この女は、この時が、イエス様の傍にいる最後の時であることを理解し、行動に出たのですね。この場にいた人たちにとっては、唐突だったのですが、この女にとっては、ずっと心の中にあったのでしょう。もうこの時を逃すと機会はないと思い詰め、彼女の持ってる大事な嫁入り道具であるナルドの香油を捧げつくしたのです。

 

 そのときの人々の反応は、このように書かれています。

 『14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。』


 この言葉から見えるのは、「物がもったいない。」「ほかに使い道がある」と言う 損得だけを見て、彼女を咎めたことがわかります。あからさまに言えば、「献品してくれるべきだった」ということです。そして、「何のためにイエス様に香油を注いだのか?」には、興味を示していないですね。これでは、あまりにも一方的な「お咎め」としか言いようがありません。

そこでイエス様が言います。

『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。』


 イエス様は、香油を塗ることを続けさせたうえで、皆に説明します。イエス様は、この女のしたことを「良いこと」と言いました。イエス様は、この出来事を喜んでいるわけです。そして、他の人に迷惑だったわけでもありません。被害者がいないのであれば、咎められる理由はないのです。そこで、イエス様はさらに説明を加えます。

『14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。』

 貧しい人たちへの施しは、いつでもできますが、イエス様に直接信仰を告白するには、この女にとって最後の機会でした。そして、できることは埋葬のための「塗油」、つまり香油を塗ってイエス様が葬られる準備をすることでした。ほかには、何もできることがなかったのです。そして、そのために大事に持っている香油すべてを捧げたのです。・・・イエス様は、ここまでで、説明をやめています。この女は、その行いで証をしたからです。「イエス様こそメシア(油を注がれた者)です。」と。目撃した人たちは、わかったはずです。しかし、この女を咎めた人たちは、「イエス様こそメシア」と行動で表した「証」に気が付いていなかったと言えましょう。すくなくとも、この女を咎めた人たちは、この「イエス様こそメシア」と信じて「証」をした行ないを、「お金ほどには大事」とは思っていないのです。

 

 イエス様に従っていた女性たちは優秀でした。それに比べ、12弟子たちは、この十字架の出来事の前後は特に、みっともなかったですね。また、イエス様の十字架刑のとき、その場所にいたほとんどが女性です。12弟子たちは、逃げたまま戻ってきませんでした。また、復活の時にお墓に出かけたのも女性たちです。その結果、復活を最初に知ったのは女性たちであり、12弟子たちは、隠れたまま。そして、イエス様の復活の報告を疑っていました。結果にこれだけの差が出ましたが、この12弟子と女性たちの違いは、何なのでしょうか? 私は、こう思います。「今何をなすべきか」と考えて、自ら行動した女性たちと比べ、12弟子たちは「損得勘定」を基準に行動していたと。

 今日の聖書の個所は、祭司長たちのたくらみのところから始まりますが、この祭司長たちも「今何をすべきか」ではなく「損得勘定」で判断しています。12弟子と変わりません。本来、イエス様を捕らえて殺してよいわけはありません。しかも聖職者がそのようなことを謀るわけですから、かなりひどい話です。さらに、「祭りの間は騒ぎが起きそうだからやめておこう」と、都合で延期とします。本来、「人を殺すことはいけないことだからやめておこう」が正しい判断ですが、「損得勘定」だけが優先され、「今何をすべきか」、つまり「神様は何を求めているのか」については顧みられていないのです。

  

 この物語で香油を注いだ女は、イエス様が死を目の前にしていることを信じ、今この時にしかできないことを、やり遂げました。一方で、イエス様の死を恐れ、そのことを聞こうともしない弟子たちは、この女のすることに対して咎めるだけでした。「イエス様こそメシヤ(油を注がれた者)である」とのこの女性の証を受け止めきれなかったのです。そして、今を逃したら、もう機会が得られないことも理解していなかったのです。


 私たちは、いつも、イエス様のためにできることを考えています。しかし、行動を起こすためには背中を押される必要があるのかもしれません。そうしないと、なかなか始められなくて、もたもたいるうちに機会がなくなってしまいます。ですから、今できることから、イエス様への信仰を行動をもって証することが大事だと思います。決して、他人の評価を気にしてはいけません。イエス様と私の関係だけを見ていればよいのです。どんな小さな奉仕であろうと、イエス様は『わたしに良いことをしてくれたのだ』と喜んでくださいます。