ローマ8:28,31-39

 キリストを確信して

2020年 5月 17日 主日礼拝

『キリストを確信して』     

聖書 ローマの信徒への手紙8:28,31-39 

今日は、ローマの信徒への手紙からみ言葉を選びました。特にローマの信徒への手紙の8章28節は、信徒の証等では、よく使われるパウロの言葉です。8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 いろんな困難が起こる中、自分の希望をかなえようと右往左往した。しかし、神様は思いもよらない方法で、最善を備えてくれた。そのような成功体験の証を、皆さんは聴いたことがあると思います。一方で、神様が「万事を益とされる」ということを信じて、祈り求めています。と まさに困難の最中に、証をすることもあるでしょう。困難を乗り越えられた感謝と賛美、困難を乗り越えられるようにとの祈り、どちらであっても、このみ言葉で、励まし、励まされる機会は一度ならずもあったと思います。

このみ言葉は、「困難の最中にあってもイエス様により頼み、イエス様のご計画にゆだねている」信仰の証です。この確信があるからこそ、「自分の思うとおりになっても、ならなくても」、希望と平安をもって歩むことが出来ます。

もちろん、自分の希望がかなえられなくても、これが神様が自分に与えられた、最善の結果だった。そのように、イエス様を愛する私たちには、いつかは気が付かされるのだと思います。

 

さて、最近は厚生労働省がコロナの関係で、話題になりますが、コロナ以上に深刻な統計もっています。今年3月に厚生労働省から発表された、日本における2019年の自殺の状況を見ると。1年間で、自殺で死んだ人が2万人。約20%の死亡率ですから、10万人が自殺を試みたことになります。1000人に一人という、とんでもなく多いのが実態です。日本は、世界で一番自殺が多いと言われていますし、「知人がリストカットした等」も、聴くことがあると思います。また、クリスチャンであるからと言って、自殺をしないということは残念ながら言えません。「神を愛する者」とは、クリスチャンのことですが、その信仰が揺らぐほどの困難があったならば、祈るしかありません。本人の祈りだけではなく、多くのとりなしの祈りも必要です。

もう少し、その統計を紹介したいと思います。自殺の原因の60%以上は、健康問題と経済・生活問題ですが、具体的には、心の病気、身体の病気、生活苦などです。これらの困難は、自分一人では解決できないものです。一方で残りの30%程度は人間関係が原因でした。ある程度は本人の努力が可能なのでしょうが、日々の生活に困難ができると、容易に元には戻れないときがあります。神様は、そんな状態にある人を、見棄てることはできません。ですから、イエス様をこの世に送られたのです。イエス様の計らいによって、困難に直面している人々をも、不思議な方法で救ってくださるのです。

 

今、私たちが直面している困難に、コロナウィルス対策があります。教会が、政府や自治体の要請に協力するのは、社会を構成する一員として当然だとは思います。それで、経堂バプテスト教会での毎週の礼拝を休止し、家庭で礼拝を守るという、自主規制が始まりました。政府の緊急事態宣言や、学校の休校等、基準がないまま、始まってしまった関係上、私たちも基準がないまま礼拝を休止しましたが、今一度、私たちの信仰に立ち返って、礼拝の再開を祈っていきたいと思います。

 

最近確認しました、経堂バプテスト教会の信仰告白にも、「8 主の日  一週の始めの日は,キリストの復活を記念する”主の日”として公けの礼拝をささげて,此の日を神のため,又,個人の魂のために, 聖く守るべきことを信じます。」とあります。

 今は、この信仰告白を守ることが困難な状況です。しかし、いつかは私たち自身の手で、この自主規制を撤廃することになります。決して、国や都が決めてくれるのではありません。ここで、私たちの信仰と祈りとをもって、考えていく必要があると思います。

 

先ほどあげた、教会の信仰告白には、「主の日の公の礼拝を捧げる」事が明記されていますが、「国家権力や其の他の諸権威を尊重し,キリストのみ旨に反しない限り,良心的に,これに従うべきことを信じます。 」ともあります。ですから、国や都の要請には、「キリストのみ旨に反しない限り従う」ことは、みなさんに了解いただけると思います。ですが、わかりにくいことに、基準がない緊急事態宣言を受けての「自主規制」だったものですから、具体的に後から出てきた要請よりも「厳しめ」なのが実態です。

都の要請を見ると、今よりも都の要請が厳しくならない限り、礼拝再開は可能です。また、教会の礼拝は、休止要請対象にはもともと含まれていません。実際、教会にも当てはまる要請は、以下ぐらいです。

・50人以上集まる場の休止(経堂の規模では対象になりません)

・ソーシャルディスタンスの確保(3への対策)

・マスク・手洗いの推奨

 

一方で、教会員の健康は大事ですから、一人一人が罹患しないように注意が必要です。また、教会の中で感染が広がるようなことは、あってはなりません。ですから、非常事態宣言が解除されても、次のことは必要です。

・それぞれが外出等で感染しないように注意

・調子がすぐれない人、感染者との接触が疑われる人は、礼拝には出席しない。

・礼拝のために手の消毒、マスク着用をする。

・交わりの時間は、短時間かつ距離を置いて

 

なお、収束宣言には、2,3年かかるという専門家もいますから、教会としてのコロナとの付き合い方を考えていきましょう。教会での礼拝は、「不要・不急の外出にはあたらない」ので、 信仰をもって、解決策を祈っていくことが、今私たちに問われていると思います。


聖書は語ります。8:31もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 確かに、神様が見方でさえあれば、全能の神に敵対できる者はいません。ですから、すごい力を得るとことになります。ところが、一つだけ問題があります。私たちが、神様の用意した計画を受け入れることが、必要です。

私たちは、素直な気持ちで、望むことを神様にお祈りすることが許されています。神様は、その望むことすべてを聞いて下さいますが、私たちの望み通りではない、別の答えを用意されることが多いでしょう。神様が、私たちのご主人でありますから、神様の計画を受け入れないことには、前に進みようがないのです。

もうすこし、聖書を読んで見ると、パウロはこんなことを言っています。

8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

 神様は、出し惜しみをする方ではありません。その独子までを私たちのために渡してくださった方です。必ず、一番良いものを与えてくれるはずです。

パウロは、続けます。私たちを神様は義とされた。 と  それも一方的にです。

私たちは、義とされるだけの理由がないにもかかわらず、私たちは選ばれたのです。ですから、私たちは、もう、訴えられることもなければ、神様によって罪に定められることはありません。私たちは、その罪から解放されたのです。そこには、イエス様の執り成しがあります。義とされる価値は、私たちにはありません。ですが、復活したイエス様は、価値がない、小さいものである私たちを、神様に執り成してくださいました。もともと私たちは罪人であるのに、許されただけです。

 そして、パウロは、(35節から37節で、)勝利を宣言します。

 艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣 これらの力をもってしても、私たちと主イエスキリストとの関係を断ち切ることはできません。たとえ、その力に私たちが負けそうになっても、一方的に主イエスキリストの愛はそこに働きます。

 

いま一度改めて、ローマ人の手紙の8章28節を読んでみましょう。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

一人一人に、いろんな困難が起こる中、神様はすべての人にふさわしくご計画をなされます。ですから、すぐには難しいです。神様は私たちに思いもよらない方法で、最善を備えてくれますが、そこには祈りが必要です。そして、祈りながら決断の準備が出来ていくのだと思います。その決断とは、自身の希望と全く一緒のことが起こされなくても受け入れられる心の準備。そして、自身に必要なことと、そうでもないことの区別を理解できる準備。そうすれば、神様は全ての人の望みを聞き届けることでしょう。それでも、神様のなされることは、私たちには推し量ることが出来ないほど、不思議なことです。私たちは、神様が「万事を益とされる」ということを信じて、祈って、祈って、そして求めれば、まさにその困難は乗り越えられるのです。困難があるとき、大勢の前でそれを打ち明けることはあまりしないでしょう。でも、同じ信仰を持つ気の置けない兄弟姉妹の前で、その困難を分かち合い、祈りあうならば、たくさんの力が与えられると思います。こうした分かち合いのなかで、み言葉をもって、励まし、励まされる機会は本当に貴重だと思います。

そして、困難であっても、困難ではなかったとしても、神様の計画はそこに存在します。祈り求めれば、神様の御心のままに、一つ一つ成就するでしょう。

ですから、困難の最中にあっても、困難が無くても、イエス様により頼み、そのご計画にゆだねていきましょう。

教会は、イエス様への信仰によって立ちます。イエス様は、いつも私たちのために神様にとりなしてくださいますから感謝です。そして、イエス様により頼んで、この教会が強く立っていくよう、祈ってまいりましょう。