出エジプト20:8-11 

日は休息の日

20222月13日主日礼

主日は休息の日

 聖書 出エジプト記20:8-11

   おはようございます。今日は出エジプト記から安息日のお話をします。安息日とは、何のことなのでしょうか?新共同訳聖書の語句解説を読むと、このように書かれています。

『安息日(あんそくび) 週の第7日。太陽暦の金曜日日没から土曜日日没まで,モーセの十戒によって,神を敬うために聖別された休息の日と定められていた(出 20:8-11)。イエスの時代には,この日にしてはならない行為が細かく定められており,それを厳格に守ることが律法に忠実なことの証拠とされた。律法学者の中には,たとえば麦の穂を摘むことすら,禁じられた労働とみる者もあった(ルカ 6:2)。』

 この安息日は、普通のお休みとは様子が違っていて、全ての労働をしてはいけない日です。モーセの十戒のなかの四番目の戒めに当たり、徹底的にこの戒めを守る人が、忠実な人とされたようです。極端な例をあげると、イスラエルの民は、安息日には戦争中であっても戦争を休み安息日を守りました。そこに付け込んで、安息日に攻撃を仕掛ける敵もいましたが、それでもイスラエルの民は反撃をしないのです。また、エレベータも安息日(シャバット)には、労働をしなくてすむようにシャバットエレベータになるそうです。エレベータで人が行う労働とは、具体的には「行先のボタンを押す」ことです。ボタンを押すという労働をしなくてよいように、自動運転で各階に止まるのだそうです。そこまで、厳格に労働を禁止しているわけです。

 イスラエルの民にとって、安息日は、今日の聖書にあるように神様がこの世を創造されたときに7日目に休んだことを記念したものであります。一方で、申命記では、イスラエルの民がエジプトからの脱出したときを、思い起こすために安息日を守りなさいと命令しています。

申命記『5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。』

 ですから、安息日には会堂(シナゴーグ)に集まって、神様の救いに感謝して礼拝を守り、そしてモーセの律法を聞いていたわけです。

 

 新約聖書の時代でも安息日が守られていました。新約聖書には、安息日の記事がたくさんあります。イエス様は、安息日でも病人を癒していましたので、「安息日を守らない」とのファリサイ派の人々から指摘を受け続けていました。それが、パウロの活躍するころになって、安息日は守らなくてよいとの考えが出てきたようです。コロサイの信徒への手紙で、パウロは、様々な掟についてこのように言っています。

『2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。

2:17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』

 

 しかし安息日は、完全に否定されていたわけではなくて、現代のキリスト教にも引き継がれていきます。ただし、キリスト教では日曜日を主の日(黙示録1:10)として、礼拝する日そして休日となったのです。これは、イエス様の復活した日も、聖霊が降った日も日曜日であることを根拠に日曜日を主の日としたのだと思われます。

 

 安息日と主の日と呼ばれる日曜日との違いについて、整理してみましょう。旧約聖書や新約聖書の記事にある安息日とは、金曜日の日没からの一日をさしましたが、キリスト教会はこの安息日を、キリストが復活された日曜日に振り替えました。キリストがよみがえられた日こそ、キリストに礼拝をささげ、キリストからの安息を受けるのにふさわしい日と考えたからです。そういうことから主の日とか、主日という呼び方をするようになりました。ですから、安息日についての戒めは、そのまま主の日である日曜日についての教えとして読み取ることもできます。

 

 この安息日を大切にする根拠として、十一節で、このように書かれています。

『20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。』

 

 出エジプト記では安息日の戒めの根拠は天地創造の時に主が休まれたからだと言っているのです。創世記を見てみると、神様が六日間かけて天地を創造されて、最後に人間をお造りになりました。そして、七日目に神様はすべての業を休まれて、その日を聖なる日とされました。そうすると、人間は生まれたとき、その人生の最初が安息日で始まったことになります。ということは、神様ご自身は6日間働いて、人間に安息をお与えになったということです。私たちは、休日というのは、働いたご褒美だという理解をしてしまいがちですが、そうではなくて、神様がすべてを整えてくださって、そして、人間に安息させることからその生涯を始めるようにしたのです。

 

 ここに神様の祝福があります。神様がすべてを備えていてくださるから、私たちは憩いを得て、そして、喜んで私たちに与えられている一週間の務めに向かっていくことができるのです。これが、安息日の祝福の意味です。

 

 私たちにとっての主の日も、安息日と同じように、祝福にあずかっていることを思い起こすことが大切です。私たちはこの礼拝に呼び集められて、神様が私たちとともにあって、安息を与えてくださいます。それによって、私たちの一週間が神の祝福のなかにおかれていることを覚えて感謝するわけです。また、私たちは神様に救われた者として、この今生きる世界に派遣されていることを覚えるのです。祝福と派遣、この二つのことが覚えるからこそ、私たちの一週間は、神様の導きの中を歩めるのです。

 

 現代人には、やることが沢山ありますから、主日礼拝を大事にしたくても、なかなか都合がつかないことがあります。私も、会社に勤めていた時は、出張や休日出勤で、どうしても教会に行けない時もありました。私たちにとって、日曜日は、色々な付き合いも求められています。仕事や家族や近隣との関係で、断れないこともあります。ですから、日曜日は礼拝だけ出て、何も仕事をしないというわけにはいきません。実際に、礼拝のために時間を確保し続けることは、結構な努力がいります。その反対に、用事があるからといって、それを礼拝より優先させてしまっては、神様と向き合って自分の心を整えることのないまま、一週間を迎えてしまうことになります。そうなると、神様があらかじめ準備されていた一週間を十分な形で受け取ることになりません。そしてもし、準備なく始まってしまった一週間であるならば、「我慢と忍耐」の一週間になるかもしれません。こうなっては、喜んで働く一週間ではなくなって、ただただ次の休みを待ち望むようになってしまいます。つまり、休日は「我慢と忍耐」のご褒美だということになってしまうでしょう。

 

 そうなってしまわないように、神様は私たちの一週間の生活に先だって、すべての準備を整えて、私たちを礼拝に招いて下さいます。また、私たちが神様の救いに与った者として、この一週間生き生きと生活ができるように、励まし、そして支えてくださるのです。

 月曜の朝、勤めに出るときに、億劫になっていたり、なんとなく元気がないならば、せっかくの主日がうまく守られていないことになります。神様は、この世界を創造された時から、六日間働いて、一日休むように秩序づけられました。これは、神様の知恵です。この日を神様の前に出て礼拝を守り、応答として賛美し祈って過ごすことによって、次の一週間が祝福されたものとなるのです。たしかに、目の前に仕事や、やるべきことがあって、それにもかかわらず礼拝に出ることは難しい場合もあるでしょう。しかし、その場所にいて神様を礼拝することはできます。また、出張先で教会を探すこともできます。また、最近は礼拝をyou tubeで公開していたり、宣教集をHPに載せている教会も多いです。そういう意味で、一週間に一回神様と向き合って、一人で礼拝をすることは、そんなに難しいことではなくなってきています。それこそ、神様への信頼があればできることです。自分の都合を抑え気味にして、神様と向き合い、そして神様の導きを受け取るための時を持つということだからです。もちろん、教会に来て礼拝を守り、そして信徒同士で交わることが、教会の基本でありますが、それがかなわないときでも、主の日の祝福にあずかることができるのです。それは、私たちの信仰にかかっているのです。そして、日曜日のどの時間でも構いません、今やりかけていることを一度止めて、神様を礼拝するならば、そこに神様の祝福と平安があるでしょう。

 

ヘブル人への手紙の4章に、安息日についてこのように書かれています。

『4:10神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。』

 

 神様が休んだのだから、私たちも休む。休む前に、すべてのわざを終える。だから、安息日には、すべてのことを止(や)めます。すべてを止(や)めることによって、神様は私たちを祝福する時としているのです。

 

 ヘブル語の安息日(シャバット)と言う言葉は、「やめる」という意味から来ています。日本語のイメージでは安らかに息をつくという穏やかな光景を想像してしまいますが、安息とは神様に信頼して、何もしないこと、すべてのわざを積極的に止(や)めることにあるのです。ですから、戦争中でも必ず神様に守られるとの信頼から、戦いそのものをやめてしまうのです。

 

 今日の聖書には、このように記されています。

『20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。』

 

 この安息日の戒めは、あなた一人ではなく、すべての人に適用されるべきだということしています。自分だけが休んで、奴隷や息子、娘に働かせれば済むということではありません。また、外国人に働かせるのは構わないという考えでもありません。すべての人と家畜が、一斉に休む。つまり、一部の人が休むために誰も働いてはいけないのです。そして、この掟を守り、守らせるために、安息日には何のプログラムも用意されません。もし、何らかのプログラムがあって、そこで働くことになったならば、掟を守ることができないからです。そういう趣旨を大事にするのならば、教会も礼拝後のプログラムを抑えぎみにして、十分に休息できるようにまっすぐ家に帰るのが良いと思われます。バプテスト教会は、そういう面では、午後のプログラムが多いですね。例えば、第一週は執事会、第二週は委員会、第三週は女性会、第四週は教師会などと、毎週プログラムがあって、教会から帰るときには疲れ切っているということも、ままあります。本当は、私たちもしっかり休息する日にすべきなのかもしれませんが、いつもワイワイやっているのはバプテストの良いところでもあります。それでも、できる範囲で、ゆっくりと過ごしていければ良いと思います。神様が安息日を取り入れられた目的は、私たちがゆっくり休んで、そしてみ言葉をいただき、次の6日間働く元気を得るためです。ですから、仕事をしないという「文字通りの掟」を守る必要はありません。神様に向き合って、そしてみ言葉によって一週間生きる元気を、そして休息によって体力的な元気を、豊かにいただく。そのような主の日を過ごすことが大事です。そこに、私たちの信仰生活を維持できる大本があります。そして、短くてよいですから祈ること。イエス様とおしゃべりをするように祈りましょう。そこには、祝福と平安がやってきます。