1.キリストの愛を知る
3章1~13節は、パウロが霊的に導かれて語った言葉なので、2章の終わりから3章14節以下を読むとつながります。その方が自然だからです。
さて、ここに記されているパウロの祈りは、教会のための祈りです。パウロはこのときひざまずいて祈ったと思われます。ユダヤ人は、立ったまま腕を上に伸ばして、天に向けて祈りますが、パウロは、「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」とわざわざ断っています。ユダヤ人は、特別な場合には、地面にひれ伏して、または、ひざまずいて祈りました。具体的にどのような特別な祈りであったかは判りませんが、異邦人の使徒として、異邦人のために祈ったことは間違いないでしょう。また、このパウロの祈りに倣って、エフェソの異邦人が祈ることも期待していたのだと思われます。
パウロのこの祈りは、私たちが祈る上での多くのことを教えてくれます。
『3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。』
ギリシャ語では、父を表すパテール(πατήρ)と家族を表すパトリア(πατριά)は同じ語幹を持っています。つまり、家族とは一人の父親につながる一族でありますから、父系親族を指します。つまりは、同じ姓を名乗るわけです。パウロは、そこにかけ言葉のようにして、父なる神様の名が、父を礼拝する神の家族の名となっていることを、一番先に祈りました。この言葉遊びによってパウロは、「神様が万物の創造者であり、今も変わりなく支配している」ことを告白しています。つまり、人は神様の支配の中にあるという事に、目を向けるべきことを示したのです。
パウロの祈りは、第一に自分の生きている基盤が何であるかを確認することから始まりました。その基盤とは、神様にほかなりません。祈りは、祈る人が「神様を支配して、自分の思う通りに神様を使いまわす」ために行うことではありません。祈りは、世界とその中に満ちるすべてのものを造り、これを支配している神様に委ねて生きる信仰から出る行為なのです。
だからパウロは、祈りの第二の言葉を、このように続けます。
『3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。』
わたしたちの「内なる人」を強めるためには、「心の内にキリストを住まわせ」る必要があるとパウロは言います。死に打ち勝ち復活したキリストが、私たちの心の内に住んでくださるならば、どんな危機や試練に直面しても、心は強められます。このキリストが私たちの内に住むという状態は、ただ「信仰によって」のみ可能です。神様は、私たちの信仰を通してのみ、キリストが私たちの内に住むことを実現させてくださるのです。
「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」とパウロは言います。愛というと、私たちはすぐ対人関係の愛を思い起こします。しかし、ここでパウロが言うこの「愛」は「キリストの愛」なのです。キリストの愛は、第一に、神様への信頼です。私たちの家長である神様の意思に従う愛です。それは、イエス様が十字架の死に至るまで従順であることによって表されました。第二に、その十字架を受け入れたイエス様の、神様への従順による死は、贖罪のための死でありました。ですから、イエス様は人を救うための無償の愛を示されました。しかし、神様はこのキリストを復活させることによって、キリストへの愛を示し、イエス様に結びつくすべての者を愛していることを明らかにしました。ですから、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」という言葉で私たちが求められているのは、キリストの愛、そして神様がキリストに向けている愛、その両方を知ることです。このキリストの愛は、個人の持ち物でもなければ、知っているだけで良いというものでもありません。この愛は、行いを伴います。そのためには、教会全体がこの愛を実践する信仰が求められます。
だからパウロは、『3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。』と祈っています。
「すべての聖なる者たちと共に」ということが大切です。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉で意味されている具体的内容が何であるかは、理解し尽くすことは不可能です。しかし、それはキリストに倣う生き方を求める中で、少しずつ知ることができます。キリストの神様への愛は、父なる神様への信頼と従順です。
2.祈りの結び
そして、パウロは、この祈りを結びます。パウロはこの歌において、神様をこのように呼んでいます。
『3:20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、』
わたしたちが祈るために向かい合う方が、そのような素晴らしい方であると知り、そして信頼して祈る祈りは、慰めと希望に満ちます。わたしたちはこのような、力があり、愛に満ちた神様を知っていますので、この神様に向かって心を一つにして、共に祈り合う者となれるのです。
パウロのこの祈りは、心の内に向いたものであります。決して、外的な改善を求める祈りではありません。パウロは、この祈りによって、「教会での祈りとは何か」、その本質を明らかにしていると言えるでしょう。わたしたちが祈りで大切にしなければならないのは、神様の支配とわたしたちの内に働く力への信仰です。イエス・キリストの犠牲による救いと、その愛に信頼する信仰をもって祈ることです。そして、神様に栄光を帰することができるよう祈り求めるよう、パウロはこの祈りでわたしたちに教えているのです。このパウロの祈りが、わたしたちの教会の祈りとなるよう、求められているのです。