2025年 3月 16日 主日礼拝
『この時のために』
聖書 ヨハネによる福音書12:1-8
今日の聖書は、イエス様が十字架につけられる直前の週のできごとです。ちょうど来週から受難節が始まりますが、4月13日の日曜日が棕櫚の日曜日にあたります。イエス様がエルサレムに入場した時、このイエス様の言葉がありました。(今週の聖句)
ヨハネ『12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。』
イエス様は、「この時」を迎えていました。イエス様がこの地上に来たのは、まさに「この時」のためでした。まもなくイエス様は、この地上での生活を終えようとしています。まさに、「この時」のために生きていたのです。もちろん、それを避けたいという思いがあります。しかし、「この時」を逃せば、イエス様がこの地上で与えられた使命を果たすことができません。その使命とは、ご自分の命を、全人類の罪への贖いとして捧げ、そして三日目によみがえり、天に昇ることです。
さて、時を示すギリシャ語には、一般には時間のことを指すクロノス(Χρόνος)と、機会のことを指すカイロス(Καιρός)があります。この箇所に使われているギリシャ語は?、と言いますとオーラ(Ὥρα)です。この言葉は、時間や季節をさします。この言葉は、目的を達成するためにきわめて限られた機会、短い瞬間をさします。(冠詞付きで単数なので、その機会は1回)
福音書を書いたヨハネは、この「時」を意識していました。例えば、 初めのしるしとして、カナの町の婚礼で水をぶどう酒に変えた出来事です。
ヨハネ『2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」』
母マリヤは、イエス様が救世主:メシアなのであれば、今ここで奇蹟を起こして人々にメシアであることを示してほしい、と密かに思っていたのでしょう。けれども、イエス様は「その時(ὥρα)はまだ来ていません」と断りました。
そして、もう一例。イエス様が十字架にかけられる半年前、仮庵の祭りで、祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエス様を捕らえようとしました。ところがこう書いてあります。
ヨハネ『7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時(ὥρα)はまだ来ていなかったからである。』
イエス様の時が来ていなかったので、誰も手をかけなかった、とヨハネは解説しています。そしてまた、次の章でも繰り返します。
ヨハネ『8:20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時(ὥρα)がまだ来ていなかったからである。』
ここまで、「この時」は来ていないと、ヨハネは書き続けました。それが、今。過ぎ越しの祭りの六日前になって、イエス様は『わたしはまさにこの時(ὥρα)のために来たのだ。』言います。この、神様が定めた「この時」、永遠の救いの時、贖いの時について、人々は様々な思いで迎えます。
『12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。』
時は「過越の祭りの六日前」です。イエス様が十字架にかけられるのは、まさにその過越の祭りの直前です。祭りのために世界中からユダヤ人が集まって、羊をほふり、エジプトから民を脱出させた神様に感謝をささげます。イエス様は、祭りのためにエルサレムに入る前に、3キロメートルほど手前にあるベタニヤ村に立ち寄りました。そこには、親しくしていたマルタ、マリアの姉妹と、その弟ラザロがいたからです。そのラザロは、イエス様が生き返らせたばかりでした。それが噂になっていて、多くのユダヤ人たちは、イエス様と、ラザロを見るためにベタニヤ村に集まったのです。(ヨハネ12:9)
『12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。』
マリア(マリアム)という名前は、聖書にたくさん出てきますが、この記事のマリアは、マルタの妹で、ラザロの姉のマリアです。この場面での彼女の役割は、イエス様の時が来ている「この時」に、油を注ぐことでした。彼女は、イエス様こそ救い主だ と、証しをしたのです。なぜなら、救い主メシアとは油を注がれた者のことだからです。またもう一つの彼女の役割は、イエス様の葬りの準備でした。ここで使われた香油は、貴重な香草(スパイクナード)を使った高価なものです。家の一年分の収入に相当する香油を、マリアはイエス様のために使いきってしまいました。まさに、この時は逃してはいけない、1回だけの機会だったからです。マリアは、イエス様を救い主と信じていました。そして、イエス様のこの予告も信じていたのです。
マルコ『8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。』
この言葉を信じたマリアは、遺体を清めるために油を塗るという役割をも果たしたのです。実際、この後にイエス様に油を塗るという葬りの準備は、行なわれていません。
マリアは、イエス様の足にも香油を塗りました。当時はお客さんを家に招くときに、僕が客の汚れた足を洗いました。だから、とても高価な香油を使ったことを除けば、普通の接待です。マリアが高価な香油を全部使ったのは、敬愛するイエス様を、救い主として信じ、この時しかない とばかりに自分の持つ全てを捧げたからです。その一方で、ユダはマリアを咎めます。
『12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。』
ユダの言っていることは、一見正しくて、正義ではあります。しかし、正義とは口先の言葉が正しいことではありません。ヨハネは、裏切り者、盗人としてユダを批判しました。しかし、それは五十歩百歩です。イエス様の十字架の出来事を思い出してください。その時、ヨハネ自身も逃げてしまいました。イエス様が十字架にかかった場面で、ヨハネがその場にいなかったのは事実です。決して、ユダだけが裏切ったのではないのです。男性の弟子全員が逃げました。つまり、イエス様を裏切ったのです。そして、イエス様は、葬りの準備が整わないまま、墓に入れられました。後から考えると、このときのベタニア村のマリアが、その葬りの準備を済ませていたのです。
『12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」』
このマリアが使った香油は、「私の葬りの日のために、それを取っておいた。」ものだとイエス様は言います。そもそも香油は、ユダヤ人に女の子が生まれると、両親が準備するものです。かなりの価値がありますから、一生の財産として、使わずに持ち続けるものです。マリアは、その大事な一生の財産を、イエス様の葬りの準備のために使ったのです。「この時」こそが、高価な香油を使う特別の機会だったのです。イエス様が死んでからでは、そのような機会はなかったでしょう。イエス様が生きている「この時」にこそ、自分が信じて、慕っているイエス様の世話をしたい。そう、思ったのです。マリアは、イエス様の時が来ており、イエス様の死が近いことを信じていたのです。
マタイ『17:22 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。17:23 そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。』
弟子たちは、はっきりとイエス様から聞いていたのにも関わらず、まだ分かっていませんでした。イエス様が「殺される」と聞いたときに、彼らの思考が停止してしまったのです。ですから、弟子たちは、イエス様とずっと一緒にいたのですが、イエス様の究極の使命、その「時」をわきまえていませんでした。けれども、マリアは違いました。そもそも聖書に出てくる女性たちは、男性の弟子たちよりもしっかりしているように見えます。マリアは教えを受けるとき、イエス様の足元で耳を傾けていました。イエス様が自分たちの家に来ているのに、世話を焼くこともないマリア。この時マリアは、イエス様の言葉を受け止め、イエス様の予告を信じていて、家事よりもイエス様の教えを選んでいたのです。そのことを理解しない姉のマルタは、イエス様に苦情を言いました。(ルカ10:40)
この物語は、マリアのように「イエス様の言葉を聞いていますか?、そして、イエス様を信じましたか?」、と 問いかけます。イエス様が十字架につけられる時が近づいています。イスカリオテのユダは、イエス様を信じ切れなかったのでしょうか?イエス様を裏切ることを考え始めています。一方で、イエス様を信じていたマリアは、イエス様の教えをもっと知ろうとして、イエス様の言葉に真剣に聞いていました。そして、誰かに促されたわけではありません。自分から進んで、イエス様への信仰を、証ししました。それが、香油を注いだことであり、香油で足をぬぐったという行動だったわけです。私たちは、このマリアのまっすぐな信仰を見倣いたいです。マリアのような信仰をもつよう、祈りをもってイエス様の言葉に耳を傾けてまいりましょう。