1.伝道の開始
『4:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。』
バプテスマのヨハネは、キリストが来るときのための備えをした人でした。そのヨハネが捕えられ、備えの時が終ろうとしていたことを知り、イエス様は宣教を開始するためガリラヤへ向かいます。
『4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カファルナウムに来て住まわれた。』
イエス様が宣教の拠点として選んだのはカファルナウムでした。エルサレムから遠く離れた(約120km)田舎の漁師町でしたが、ローマ兵が駐屯しており、交通の要衝でした。エルサレムから離れたガリラヤから宣教を開始するのは、イザヤ書9章1-2節の預言の成就であったことをマタイは記しています。
『4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。』
イザヤ『9:0先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。』
北王国イスラエルの領土は、かつてアッシリア帝国によって捕囚され、荒廃した地域でした。イスラエル人にとって悲しい歴史であり、暗い場所でした。しかし、その場所に住む人々の所に救い主キリストが来たのです。彼らは「偉大な光を見て」、彼らの上に「光が輝いた」のです。
『4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。』
イエス様は「天の国」のことを宣べ伝えました。ヨハネは後に来られるお方が「天の国」をもたらすと預言したのに対し、イエス様は御自身が「天の国」をもたらすお方です。
※参照 マタイ『3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。』
2.漁師を弟子に
イエス様は、宣教を開始した早い段階で、12弟子たちを集めました。この箇所ではペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがイエス様に召されています。
『 4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。』
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」このイエス様の招きは、まさに漁師にふさわしい招聘の言葉となりました。なお、ギリシャ語では「わたしの後ろに来なさい」ですから、「ついて来なさい」以上に、意思を引き継ぎなさいと言う強い思いが感じられるところです。
注目したいのは、彼らが漁師たちであったことです。もちろん、拠点としたカファルナウムは漁業の町ですから、軍人、役人、農家を除けば、ほぼ漁師しかいないのは、間違いありません。そして、イエス様が選んだのは、漁師たちでした。律法の専門家でもない彼らを選ぶとは、ふつうならば、理解に苦しむところです。しかし、福音書は語っています。弟子たちの無知や失敗、弱さ、不信仰などを通して、私たちと同じ不十分な人間が弟子として選ばれているのです。そこに共感があります。彼らをイエス様は見捨てず、彼らのために祈ったことを知るわけです。すると、イエス様は私の事をも見捨てず、私のために祈ってくださることを知るのです。
イエス様の招きに対して、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはすぐに応答しました。その献身について決断の速さは実に見事でした。ペトロとアンデレは「すぐに網を捨てて従った。 」、ヤコブとヨハネも「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」とあります。網を捨てるのは、仕事を辞めることです。ヤコブとヨハネは、単純に仕事を辞めただけではありませんでした。
マルコ『1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。』
「舟と父親とを残して」というのは、財産、地位、人間関係などのしがらみを捨て、イエス様に付いて行ったということです。自分が今まで手に持っていたすべてを捨て、従う。その、覚悟が必要です。
イエス様こそ完全に献身した方であり、私たちの信仰の模範です。父なる神様を愛し、その御心にしたがって人々を愛し、人々の罪を背負い、身代わりの死を遂げるため十字架の道を歩みました。このように、御心に従おうとするときには犠牲を払うことを躊躇したり恐れては、応答することが出来ません。「私を用いてください」という祈りは、すべてのクリスチャンにとって素晴らしい祈りです。祈りが聞かれても、聞かれなくても、神様は最善の道を備えて下さっているのです。そして、決して招聘に応じられなくても、それは恥ずかしいことでも何でもありません。ただ、その時が来ていないだけです。そのまま、「私を用いてください」と祈り続ける。そうありたいものです。