2024年 9月 15日 主日礼拝
『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける』
聖書 ヨハネによる福音書10:22-30
今朝の御言葉には、2 つの大切な事が書かれています。一つ目は、「イエス様の声を聞き分ける者は、イエス様を信じる」 ということです。イエス様の声を聞き分ける者をイエス様は「わたしの羊」と呼びました。二つ目に、御子なるイエス様と父なる神様とは一体である、との福音です。そして、イエス様の救いと福音を信じる者は、永遠に滅びない と約束されています。この約束は、「御子なるイエス様と父なる神様は一つである」、ことが前提となっています。だから、イエス様を救い主、神の子と信じ告白することは、神様を信じることと同じです。イエス様を信じるわたしたちは、神様の「羊の群れ」なのです。イエス様と父なる神様が一体であるからこそ、父なる神様は御子なるイエス様を通して、わたしたちを選びます。だから、父なる神様は、イエス様と一つとなって、わたしたちを招いているのです。
エルサレムの「宮きよめの祭」は、毎年12 月に行なわれるものでした。わたしたちが使ってる新共同訳では「神殿奉献記念祭」と訳されています。もとのギリシャ語「ἐγκαίνια」(希:エングカーニア)の意味は、奉献の饗宴です。この起源は、ユダヤ教徒が、バビロンから帰って再建した神殿をセレウコス朝シリアに奪われ、それを奪い返したときに再奉献をしたことが始まりです。異教徒に神殿を奪われていたので、奪い返した後汚れを清めたことから、(ハヌカー)「清めの祭り」とユダヤでは呼んでいます。
さて、このユダヤの祭のときに、神殿の「ソロモンの回廊」を歩くイエス様をユダヤ人たちが取り囲みます。
『10:24 ~「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」』
この訳は、おだやかすぎだと思います、実は、今日の箇所の後には、こんな記事があるからです。
『10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。』
そもそも、イエス様を取り囲んで、答えによっては、イエス様を殺そうとしています。だから、「いつになったら、我々をローマの支配から救い出すのか?」と、イエス様を問い詰めようとしていたのです。直訳するとこんなニュアンスです。
「あなたはいつになったら 我々の思いをかなえるのか?。もしあなたがキリスト(救い主)であるならば、公に言いなさい。」
ここで、キリストというギリシャ語が出てきますが、意味は、ヘブライ語では、メシヤ。日本語では救い主のことです。そして、救い主とは神様のこと(イザヤ43:11)であり、神の子(マタイ16:16,26:63、ルカ4:41,ヨハネ11:27,23:31)のことでもあります。この記事に至るまでの間、既にイエス様は何度も、ご自身がキリストつまり、救い主であることを示していました。しかし、ユダヤ人たちは信じなかったのです。イエス様の起こしたしるしを見ていながらです。また、イエス様を信じないユダヤ人は、イエス様に対して不満を持っていました。イエス様は、彼らが求めている独立運動のようなことは、しなかったからです。彼らの思うようにはならない、イエス様への不満はそこにあったのです。
そんな彼らに、イエス様はこう答えます。
『わたしは言ったが、あなたたちは信じなをい。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている。』
イエス様はすでに何度も、ご自身がキリストであると証をしていました。その良い知らせを受け入れない人は、その証では不満なのです。イエス様を信じて聞こうとしない人には、イエス様の証は、何も届かないのです。その反対で、わたしたちが、イエス様の御言葉を聞き、また、イエス様の御業を知るならば、わたしたちはイエス様のことを心から、救い主と信じるようになるのです。
イエス様はこのように続けます。
『10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。』
イエス様がここで、はっきりと「わたしの羊ではない」と指摘しているのは、イエス様を信じないユダヤ人のことです。イエス様の言葉を聞こうとしないからです。イエス様を信じるわたしたちは、父なる神様の選びによって恵みを頂いているのです。父なる神様とイエス様は、何の功績もないわたしたちを選んで、ご自分の民、ご自分の羊の群れとして下さいました。羊は弱い生き物です。元居た場所に戻るだけでも、迷子になってしまうので一匹ではとても生きていけません。羊飼によって草や水のある場所に導かれ、そして外敵から守ってもらう必要があるのです。ですから、羊の群れは一人の羊飼の声を聞いて、その声を信じてついていきます。羊にとって羊飼の声こそ、命を与える「生命(いのち)の言葉」なのです。 従順な羊と違って、イエス様の声を聞こうとしない人々がいました。イエス様を信じないユダヤ人たちです。福音書を書いたヨハネは、イエス様を救い主と信じない人々のことをユダヤ人と意図的に呼んでいます。つまり、そのユダヤ人たちは「神様の羊ではない」と断言します。
ところで、わたしたちは、自分に都合の良いことば を好みます。しかし、その都合の良い言葉通りにはならないものです。たとえば、絵に描いた餅のように、美味しそうではあるけれども、その餅で腹を満たすことはできません。また、都合の良い言葉に 心が奪われてしまうと、過ちを起こすかもしれません。だから、イエス様はわたしたちに、イエス様の声を聞くように求めています。イエス様を信じるわたしたちは、「イエス様の言葉に聞いて、従う」ことが必要なのです。イエス様の言葉は真(まこと)です。そして、すべてにおいて最善であります。たぶん、イエス様の言葉はわたしたちにとって、都合の良いものとは限りません。しかし、この真の言葉は保証されているのです。保証とは、決して都合の良いことが起こるという意味ではありません。しかし、イエス様はこのように約束してくださっているのです。
『10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。』
この言葉が、わたしたちイエス様を信じる者に希望を与えます。永遠の命は、イエス様の言葉を信じるわたしたち全てに与えられるからです。羊たちを襲う災難から、羊飼は、命をかけて守ります。それと同じように、イエス様は、命を懸けてわたしたちを守っています。そのために、父なる神様はイエス様をわたしたちに降したのです。そして、イエス様は、わたしたちを罪と死の支配から守り、罪を贖うために、わたしたちの苦難を担って十字架への道を歩んだのです。そして、イエス様は、まさにその十字架の死をもって、わたしたち全ての者の救いと永遠の命を約束して下さいました。
さて、今週の聖句に、イエス様のこの言葉を選びました。
『10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。』
今日の聖書では、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」と宣言しています。「イエス様はイエス様を信じる者を知っています。そして、わたしたち信じる者はイエス様が守ってくれることを知っているので、イエス様の導きに従ってついて行く」のです。イエス様の御言葉が、イエス様御自身と一つの父なる神様が、そして聖霊がわたしたちをあらゆる罪の支配から導いてくださるのです。そのうえ、イエス様は約束をしました。
イエス様の言葉を信じる者には、永遠の生命を与えて下さるのです。ですから、わたしたちにとってイエス様が唯一の、そしてまことの羊飼であると信じて従う。そう願ったとき、神様の平安が与えられるのです。イエス様の御言葉を聞き、イエス様に従うわたしたちは、もはや罪と死の支配から解放されました。そして、イエス様はこんな約束までして下さいます。
『10:28 ~だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。』
・・・このように、「わたしたちは、いつまでも滅びることがない」ことをイエス様が約束しているのです。それだから、「イエス様の手からわたしたちを奪う者はいない」のです。イエス様は、わたしたちが永遠の命を頂くように、わたしたちを守り、導いて下さいます。そのイエス様の権威は、父なる神様がイエス様に下さったものです。そして、わたしたちを選んだのも神様です。
わたしたちは、しばしばこんなことを思います。「もしかしたら自分は、神様に選ばれた者でないかも・・」と。また、「このような小さな、醜い、汚れた、弱いわたしを、神様は選んだのだろうか?」と。・・・そうではありません。自分が理想の姿でないからと言って、遠慮したり、逆に自分が立派だと思って、誇ったりしても、神様の選びには影響がないのです。信仰はイエス様のみ言葉と神様のみ旨を求め、そこに従うことです。だから、信仰によって自分の望みがかなえられるのではない! のです。信仰とは、イエス様に聞きながら、自分自身をイエス様の御手に委ねることです。「わたしたちの主イエス・キリストに委ね、父なる神様の愛に信頼する」その信仰を頂いたとき、「自分は神様に選ばれたのだろうか?」などと疑う必要はないはずです。そもそも、あなたが立派だから、あなたが大変良い功績をあげたから、・・神様はあなたを選んだのではありません。あなたが、イエス様のみ言葉に聞こうとするから、イエス様はあなたを「わたしの羊」として導いているのです。ですから、「もしかしたら自分は、神様に選ばれた者でないかも・・」と ためらう必要はないのです。「どんな造られたものも」つまりこの世界のいかなる力も、神様の愛からわたしたちを引き離すことはできません。いかなるこの世の力にもまさる、神様の絶大な救いの計画によって、わたしたちは守られているのです。
神様はみずから、罪にあるわたしたちを救うために、御子としてこの世に降りました。そして、わたしたちの罪を贖うために、十字架にかかりました。まさにこの十字架の犠牲によって、わたしたちは「あるがままの姿」で、父なる神様に招かれたのです。そして、イエス様は永遠の命を約束してくださいました。この恵みに感謝いたしましょう。