Ⅰコリント15:45-5

 朽ちないものを着る

2023年 15月 8日 主日礼拝 

朽ちないものを着る

聖書 コリントの信徒への手紙 15:45-58           

 今日は、召天者を記念して礼拝を守ります。先週の金曜日(一昨日)に、富士霊園にある四教会の共同墓苑で墓前礼拝を守りました。この教会のお墓には19柱の遺骨が納められています。その墓前で、讃美歌を歌い、そして祈りを捧げてきました。また、短いながら宣教で使った聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一 15:50-58です。今日は、もう少し前の所から同じ記事を使っていきたいと思います。

 さきほど、召天者名簿を読みました。24名います。そのうち、ご遺族と連絡ができているのが13人(8家族)です。ただ、在籍会員110名のうちの多くが、連絡がとれない状況ですので、この名簿にない亡くなった方もおられるでしょう。そのことも覚えて礼拝を守りたいと思います。

 この経堂バプテスト教会の礼拝は、昭和42年に始りました。西暦で言うと、1967年であります。最初に11名が転会して、信徒の家を使って伝道を開始したようですが、すぐこの年に旧会堂が完成しています。そして1969年に教会組織、1975年に宗教法人化し、1977年に現在の会堂になって、もう46年も経っています。伝道開始から56年という長い歴史の中で、多くの教会員の祈りによってこの経堂バプテスト教会があることに感謝しなければなりません。今日は、特に召天者を記念して礼拝を守っています。この方々は、地上での体はありませんが、今も霊の体をもって生き続けています。人には、自然の命の体と、そして、霊の体を持ちます。そのことをパウロはこのように説明しました。

『15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。』

パウロは、創世記2:7を引用して、最初のアダムは土で作られた「地に属する者」と呼びます。そして最後のアダムである第二の人は天に属します。この最後のアダムとはキリストの事であります。私たちは、最初のアダムの罪の故に、天には住むことが出来ません。しかし、最後のアダムであるキリストが来ることによって、その罪を贖い、そして天に導いてくださいます。ですから、私たちは天に住むための体つまり、霊の体を頂くのです。

 さて、私たちの地上での生活の最後は例外なく、全ての人が「死」を迎えます。人の死は、いつ訪れるか わかりません。年老いた人にも、若い人にも、突然訪れたり、長い闘病生活ののちに訪れたりします。そして諸先輩方はだれもが、この「死」に向き合ってきました。そして、死を避ける事はできません。だから、私たちも必ず向かい合う事になります。しかし、実際に出来る事と言ったら、多少寿命を延ばすために健康管理をして、そして良質な医療で治療を受けることぐらいです。このように「死」の前には人は無力であります。そして、「死」ぬとどうなるのかの知識もありません。暗闇の中に入るのでしょうか?。何も見えないだけなのでしょうか?何も感じない。何もかも無くなってしまうのか。その先にある「わからないこと」に、私たちは恐れを覚えるのです。

パウロは、キリスト者の「死」についてこのように説明しています。

「終わりのラッパと共に、一瞬のうちに死者は朽ちないものに変えられる」

「朽ちるものは朽ちないものを着、死ぬものは不死を着る」

 キリストの再臨のときに、イエスを信じる私も、あなたも、みな一瞬のうちに変えられます。それは、遠い未来ではありません。地上での生活を終える時にも、そのことが起こるのだと信じているのです。

その信仰については、経堂バプテスト教会の信仰告白にも記されています。

4 救い   み子イエス,キリストは,父なる神の聖旨に従い,わたしたち罪人 

        の救いのために,おのれをむなしくして人となり,苦しみを受け, 

        人間を神との正しい関係に回復するために,十字架にかかり,まつ 

        たき犠牲として神に捧げ,神の愛を顕わし,贖いとなられました。 

        三日目に復活し,今も生きて父なる神の右に在し,聖霊において, 

        わたしたちと共に在して守りみちびきたもう救主であることを信じ 

        ます。それゆえに,いかなる罪人も,イエス,キリストのあがない 

         と復活を信じる信仰によつてのみ,完全な救いと新生を受け,永遠

         の生命にあずかることが出来ることを信じます。

 私たちは、この信仰告白に賛同して、この教会のメンバーとなっています。ですから私たちは、「いかなる罪人も,イエス,キリストのあがないと復活を信じる信仰によつてのみ,完全な救いと新生を受け,永遠の生命にあずかる」ことを信じているわけです。

 このように、私たちは「死は勝利に飲み込まれた」こと、すなわち「永遠の命にあずかる」ことを信じています。死が私たちの人生を呑み込むのではありません。キリストにある勝利が、死を飲み込んでしまうのです。キリストによって、その勝利の日が来るからです。

 イエス・キリストはこの救い、よみがえりの命、永遠の命を私たちに与えるために、この地上に来ました。イエス様は、今、私たちが持っている命ではなく、新しい命を下さいます。そして、私たちはよみがえるのです。そのためにイエス様は死から復活しました。よみがえりの命を、「死」に対する勝利を、私たちに与えるために、キリストは死から復活したのです。

 神様をまだ知らない人に、この復活の福音を語ったとします。イエス・キリストがよみがえったことを、信じてくれるでしょうか? 「神話」だとか「おとぎ話」だとして、客観的事実ではないと思う人もいるでしょう。また、復活には何らかのトリックがあったとか、作り話だと考える人もいるでしょう。しかし、2000年前に起こったイエス様の奇跡には、大勢の目撃者がいました。そして、イエス様を信じたのです。そのことは、客観的事実ですから、誰かが作った話とは言えないのです。そして、この復活はクリスチャンだけではなく、全ての人に関わることを知ってもらいたいのです。

なぜならば、

「キリストの復活は、私たちのこの世の人生での「死」、を克服するからです。そして、私たちの「死」に対する勝利だからです。」

 キリストの十字架の死は、ここにいる私そしてあなたの罪の赦しのためでありました。そして、キリストの復活は、私の死そしてあなたの死に対する勝利のためにあります。だから、イエス様への信仰を告白して、その後に召天された方々は、すでにその死に対して勝利しているのです。そして、今、天の国におられます。キリストは、全ての人の救いのために、十字架で死んで、よみがえられたのです。罪なき者が罪人として裁かれ、そして十字架につけられ、死にました。そうして、罪に染まっている私たちと天の間に入って執成し、私たちにキリストを着せるのです。

 さて、復活とは何でしょうか。

復活は、単に息をしていない人が息を吹き返すと言う事ではありません。朽ちるものが朽ちないものに変わる事であります。復活すると、罪とは縁の無い者になります。ですから、決して死ぬことのない体になるのです。そもそも、死とは最初のアダムが犯した罪のために神様が与えた罰でした。それが、最後のアダムがやってきて、その罪と縁のない体にしてくださるのですから、もはやその罰は帳消しになるのです。

 ところで、死に対する私たちの備えはどうしているでしょうか?。最近は「終活」などと呼ばれている備えの事です。ほとんどの人は、苦しまないで逝きたいと願っているでしょう。加えて、家族に囲まれて死にたい、畳の上で死にたい、自宅で死にたい、お墓や葬式代は準備しておきたい、という願いがあると思います。しかし、お墓や葬式の準備、それから身の回りの整理は出来そうですが、苦しまないために、準備はできるのでしょうか? なかなか、難しそうです。一方で、有効かどうかはわかりませんが、家族と柔和に過ごすことや、健康に気を付けることぐらいが出来そうなことです。 

 そう言った終活には、足りない部分があります。それは、罪の問題と命の問題です。たとえばAさんが天に召されたとします。そのときの私たちにとって大事な事は、この2つの事実です。

「Aさんの罪は取り除かれた」

「Aさんは死を乗り越え、永遠の命を与えられた」

キリスト者が地上での生涯を終えた時、故人を偲んでこのように語られるものでありたいです。

 キリスト教会の使命は、「ゆりかごから天国まで」この地上で人々と向き合い、そして寄り添い、福音を伝えることであります。そして、その目標は、キリストにある救いを一人一人に受け入れてもらうことです。だから、しっかりと天の国に入る時まで、出会う人々と関わり続けます。イエス様を信じる信仰によって、キリストを着た人の罪は取り除かれるからです。ですから、信仰を全うして、天に召された人々の事を分かち合いましょう。まず最初に分かち合いたいのは、「Aさんは、イエス様を信じて、その信仰に基づいて人生を歩みました。」そして、「Aさんの罪は、取り除かれています」と言う言葉でです。

そして、「死は勝利にのみ込まれた」のです。イエス様を信じる者、すなわち朽ちないものを着る者の罪は、取り除かれます。そして、そのことから、永遠の命をあたえられるのです。キリストが死を乗り越えたように、イエス様への信仰を表して教会で働いてきた召天者たちは、死を乗り越え、永遠の命に与っています。 キリストが勝利したことによって、同じことが私たちにもおこるのです。私たちも キリストと同じ栄光の復活に向けて変えられるのです。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」とパウロは書きました。キリストの復活によって完全な勝利が約束され、朽ちないものを着る私たちは、死の恐れから解放されます。また、罪を犯した事への不安からも解放されました。 なぜなら、私たちの罪はすべて、キリストが身代わりとして受けて下さり、キリストの復活によって罪にも死にも勝利したからです。

 この恵みに感謝します。そして信仰の先輩方は、その福音に与ってきました。私たちは、朽ちないものであるイエス様への信仰を着た召天者を偲び、その生き様を語り合いたいですね。それが、神様の偉大な愛の証であり、私たちの使命である福音を宣べ伝えることにつながるからです。 この神様の救いの業に感謝して祈りましょう。  お祈りします。