黙示録3:14-22

熱心に努めよ

 2024年 4 21日 主日礼拝 

熱心に努めよ

聖書 ヨハネの黙示録3:14-22 

黙示録は、現在のトルコの小アジア地方にあった7つの教会に向けた手紙です。書いたのは、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙を書いたヨハネと言われています。宛先の教会は、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアです。パウロやその弟子たちがこれらの教会を立ち上げました。それは紀元64年ぐらいのことです。そしてこの黙示録は紀元90年ぐらいに書かれていますから、20年以上たっているわけです。ヨハネはこの黙示録2・3章で、七つの教会を励ましています。その中にはテェアティラのように、神の子が称賛したと書かれた教会もあります。一方で「悔い改めるよう」書かれた教会もあります。イエス様が父なる神様のいる天に帰った後、聖霊を注がれた弟子たちは、福音を伝えました。その結果、地中海周辺、特にアジヤ州、今のトルコのアジア側を中心にして各地に教会が出来たのです。ヨハネは、代表的な七つの教会に、生き残っているたった一人の使徒として、改めるべきこと、また励ますべき事柄などを書き送ったのです。

 ところで、ラオディキアの町には、ローマの大規模な土木技術を使った水道が引かれていました。言い方を変えると、飲み水に適した水がないので、遠くから水を引いていたわけです。

 ラオディキアの近くには二つの町がありました。そしてその二つの町には特別な水源があります。一つはヒエラポリスの町です。ここには天然の温泉がありました。そしてもう一つは、コロサイです。ここには冷たい真水の川がありました。これらの町とは異なり、ラオディキアには良質な水源がありませんでした。それで、大規模な水道を造ったわけですが、遠くの水源から水を引くことには成功しましたが、ラオデキアに届くころには、水はなまぬるくなってしまうのです。また、もし、温泉をラオディキアに引いたとしても、ラオディキアに届くころにはすっかり、冷めてしまいます。このことを知ったうえで、今日の記事を読んでみたいと思います。そして、ラオディキヤにある教会、昔そして特定の地域にあった教会に語られた問題ではありますが、今の私たちの問題ととらえてもよいと思います。 

『3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。』

 ラオディキヤの人々は、教会生活を守り、信仰生活をそれなりに守っていると思われます。と言うのは、他の教会には『2:5悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。』などの指摘がされていますが、そこまでは悪く書いていないので、ひどい状況では無いと思われます。それでは、なぜこのようなことを書いたのでしょうか? 確かに信仰をもって神様に仕えている教会ではあります。しかし、その在り方が、「なまぬるい」というのです。 


 このような事は私たちも経験しています。イエス様の救いにあずかって、信仰生活に導かれ、喜んでいる時期は、引いた水は冷たく、そして引いた温泉は熱いのです。しかし、だんだんと年数が経つと、長い水路の中で冷たい水はあたたまり、そして熱い温泉はぬるくなるのです。ですから、信仰生活のなかで、なされるがままに流されるならば、冷たくもなく、熱くもない信仰となってしまうのです。神様から見たら、もっと熱心になってほしい、もっと切に神様を求めて、神様の恵みをもっと沢山受けてほしいと言うことだと思います。神様が私たちに求めているのは、私たちが今よりも恵みを多く受けることです。私たちをより一層輝く者としたい。これが神様の願いであります。ところが、私たちはある程度心が満たされると、「これでいいや」、「もう十分」と、求めなくなってしまうのです。神様の恵みを勧められているのに、「いまは足りています」と言うわけですね。これがラオディキヤの教会の問題であります。それは、私たちにもあてはまりそうです。

『あなたは冷たくもなく、熱くもない』とヨハネは表現しました。なるほど、冷たく、神様に背を向けたわけでもなく、熱く祈るわけでもなく、適当に距離を置きながら・・・可もなく不可もない信仰生活を指しているわけです。私たちは、そんな信仰生活をしているのかもしれません。「冷たくもなく、熱くもない」、私たちにとってちょうど良い加減であることが、神様にとっては、中途半端なのです。もちろん、中途半端なよりも、神様から離れた方がましだということではありません。富と神様の両方に仕えることは出来ないように、冷たいか熱いかしか選べないのです。そして、熱くあってほしいと神様は願っているのです。

『3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。』

 ヨハネは、中途半端だから嫌だと言うことを「飲み水」に譬えています。ラオディキアの水はなまぬるくて、吐き出したくなる と。同じように、ラオディキアの教会の信仰はなまぬるくて、神様は吐き出しそうなのです。神様は、「もっと熱心にしなさい」と言っているわけです。それは、私たちがもっと信仰に満ちた者となってほしいからです。しかし、私たちは「このくらいでいいかな?」と腰を下ろしてしまいます。このような私たちを、神様は嘆き、悲しむのです。

『3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。』

 この箇所には、いろいろな示唆があります。直接的には、「あなたは、本当の自分の姿が見えていない」との指摘です。私たちが求めるべきは神様であるのに、「物」に満ち足りる事を求めてしまっています。そして、今は物に満たされているから神様には用がないと・・・そんなことを言っているわけです。つまり、何か欲しいものが出来るまでは、神様には用が無い。そんなご都合主義が、私たちの心の中にあるわけです。ところが、満たされていると思っている私たちは、実際は「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」でしかないのです。自分が見えていないだけなのです。それなのに、自分は全て良いと思っています。何をするにしても「私には問題が無い」と勘違いしているのです。だから周囲の人から、「あなたには、ここが不足している。」と言われると、気分を悪くするわけです。私たちは、自分が思っている自分の姿、それが誰もが見ている自分だと思いがちですが、実際は、そうではありません。だから、ヨハネは言います。「自分が惨めな者であることに気がついていない」と。

 『3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。』

 これは、この世で裕福になった者への皮肉であります。『わたしは金持ちだ。』と言っても、持っているお金は、天国では通用しません。天国で通用するお金は、愛です。金のように焼き尽くして純粋に精錬された愛しか、天国では通用しないのです。だから、その純粋な愛を持たない私たちは、それを求める必要があります。そもそも、愛と言う視点で見ると、私たちは満ち足りているのではなく、貧困状態なのであります。また、正義という白い衣を着ていないし、その事に気づかないほど目が見えていません。ですから、正義の衣を着て、目が見えるようになるために、聖書を学び、そして神様に祈る必要があるのです。

 聖書は、そういう意味で、大昔の遠い異国で起きた出来事ではありますが、現代に生きる自分の事を物語っているのです。

『3:19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。』

 神様は、私たちを愛しているがゆえに、「叱ったり、鍛えたり」します。だから、人を試練に会わせることもあります。神様は、私たちがみじめな者、裸であることに気付かせるため、試練を与えるでしょう。そして、その試練を通して、私たちが熱く燃える者となることを 神様は願っているのです。

『3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』

 イエス様は、どんな時でも戸口に立って私たちの心の扉をノックしています。ところが、私たちは目の前の問題ばかりに気を取られて、そのノックの音を聞き逃します。ことに、悲しかったり苦しかったりすると、「その問題を早く取り除きたい」と思うでしょう。しかし、まず神様との関係にしっかりと向き合うこと、これが最善の道なのです。なぜならば、その問題を起こしているのは神様だからです。神様は、私たちが神様と向き合うように導いているのです。だから、イエス様は私たちが気づくずっと前から私たちの心の戸をたたいています。結果として、「戸を開ける者」には、イエス様が共にいてくださいます。そうありたいので、私たちは、イエス様のノックに気づくことが必要です。そして、心を開けば、イエス様と食卓を共にすることが許されるのです。イエス様と共にいて、そして頼って、「もう大丈夫」と安心する。これが大切です。イエス様との関係、神様との関係が回復すれば、後は、神様が全てを解決してくださいます。


『3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。』

 イエス様が十字架に勝利して、死を打ち破り、父なる神様の御許へ帰られました。そして、今は父なる神様の所にいて、私たちのために執り成してくださいます。私たちもまた、この地上にあってイエス様と共に生きて勝利を得るのです。天の御国で、「わたしと共にわたしの座に座らせよう」。つまり、神様は私たちを、神様と共にある者としてくださいます。

 だから、私たちはイエス様が戸を叩く音を聞いたならば、かたくなになることなく、「イエス様は私の救い主です」と、心の戸を開きましょう。イエス様は、いつでも、あなたに声をかけています。イエス様はいつもそばにおられるからです。私たちが気がついていないその時その場でも、イエス様は寄り添っておられるのです。イエス様に信頼して祈るならば、イエス様との親しい交わりが回復します。ぬるい信頼ではなく、熱い信頼をもってイエス様にお願いすれば、きっと私たちの願いよりも、もっと素晴らしいことを備えてくださるのです。

 今もイエス様は、あなたの心の戸をたたいてくださっています。その音に耳を傾け、「イエス様は私の救い主です。委ねますので、導いてください」と、祈る者となる。それが、イエス様と共に生きる生活です。イエス様は、熱く祈る信徒となる事を願っています。そして、私たちをいつも導いてくださいますことに感謝いたしましょう。