コヘレトの言葉4:1-12

共に労苦すれば 

1.前半登場人物 

    わたし                  虐げのすべてを見た

                               虐げられる人の涙を見た

                            虐げる人の力を見た

虐げられる人              を慰める者はない

虐げるもの          を慰める者はない

すでに死んだ人(A)    を幸いだと言おう    

               さらに生きて行かなければならない人(B)より幸い

生まれてこなかった者        両者(A+B)よりも幸福   悪い業を見ていないから

 4:3までかけて、虐げが太陽の下で行われ、そして誰一人として慰められないことを嘆きます。それどころか、死んでしまった人の方が、虐げる側にも虐げられる側にもいなくて、かえってその方が幸いだとしています。完全に、生きる事へのあきらめ感です。生まれてこなかった方が「まし」というわけですが、その理由は、悪い業を見ていないから。つまり、人のやることを悪としていて、悪を前にして生きて希望が持てるものではないと言った、考えを示しています。そもそも、人が悪の業から逃れることができないとの、前提に立って、このことを述べています。

2.後半の対比

人間の労苦               仲間に対して競争心を燃やしているから

(これまた空しく、風を追う:風に従う ようなことだ。)

愚か者は                 手をこまねいて(腕組みをして) その身を食いつぶす。    

片手を満たして、憩いを得る 両手を満たして、なお労苦するよりも良い。

(それは風を追うようなことだ。)

ひとりの男があった。   友も息子も兄弟もない。

                  際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。

            「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのか」と思いもしない。

            (これまた空しく、不幸なことだ。)

共に労苦          その報いは良い。 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。

倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。

更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。

 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。

 人の労苦とありますが、虐げる事および虐げられることを指すのでしょう。それは、人間の仲間同士で競争心があって、その競争心を風が吹くままに風任せにしているから、競争心の火は消えることがなく、さらにエスカレートします。これでは、何にもなりません。愚かなものは、手をこまねいて何もできないで見ているだけでしょう。そして、身を滅ぼしてしまうのです。

 片手を満たして、ひと休みすることは、両手を満たそうとしてあくせくすることよりは良いのです。あくせくしても、両手を満たそうとすることは風任せで、いつ満たされるかはわかりません。

 一人の男は、富を分かち合う相手がいないのに、富に飽くことなく、際限なく労苦をした。それなのに、「自分の心地よさを欠いてまで、いったい誰のために労苦をするのか」とも疑問に思っていません。これでは、生きている意味を失っていて、むなしいだけではなく、不幸です。

 共に労苦をする人が居れば、一人が倒れても起こしてくれる人が居ます。一人よりも二人、二人より三人。

共に労苦する者がいるほど、その間の絆は強く結ばれます。

3.コヘレトは何を言っているのか?

 誰のために労苦をするのか? それが、自分のためであれば、ただただ、虐げを生むだけです。誰でも、その物欲に任せて(風を追う)いれば、虐げる側に立ちます。そして、不幸にも力が相手よりも足らないと虐げられます。また、愚かであればそのまま立ちすくんだまま何もできないうちに、持っているすべての物を取られてしまうでしょう。

 片手を満たしたところで、休むことは、両手を満たそうとして労苦するよりも良いのです。そもそも、一人であるならば、そんなに労苦して自分のためになろうはずもないのです。それなのに、より多くの富を得るために、人を虐げるならば、何になるのでしょうか?

 共に労苦する人が居れば、支えあうことができます。そして、その労苦は相手のためですから、むなしいことは無いはずです。