イザヤ書25:1-9

によって確かなものに

参考 黙示録『◆新しい天と新しい地

 21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」』

イザヤ書25章は、イエス様の再臨について書かれたものであります。当時、アッシリアによって北王国が無くなり、ユダ王国も、アッシリアから攻め立てられていました。その時代背景から、未来を歌った歌が25章と言うことです。戦禍で疲弊した国が、神の国が到来することによって、救われることを願って歌ったと言えます。それが、新約になると、イエス様が地上に降ってきて、再臨を待っている時でありますから、黙示録に見える風景には、現在進行している悲惨さと言う色合いは全くありません。そして、イザヤと比べると神の国の様子が、より解き明かされてきていると言えますが、全てが明らかになったわけではありません。


1.イザヤの時代

 イザヤの時代はまだユダ王国は滅びておらず、エルサレムには神殿がありました。ただ、神殿にはいろいろな異国の偶像が祭られていました。イザヤは国の滅びを預言しましたが、まだ人々は悔い改めないほど、絶望はしていませんでした。それが、ユダ王国滅亡後、預言は絶え、黙示の時代に入ります。現実の世に希望がないために、主の日を待ち望みます。イザヤ24章は再創造のための破壊が述べられ、25章では再創造後の祝宴が歌われます。


2.終末の情景

 『25:2 あなたは都を石塚とし/城壁のある町を瓦礫の山とし/異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう。25:3 それゆえ、強い民もあなたを敬い/暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。』

 敵が破れ、自国民が救われる。そして、敵であった者も神様を知ります。そこにあった暴力の象徴である都と城壁は、二度と建て直されません。強い民も、暴虐な国々も、神様を恐れるからです。

『25:4 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨25:5 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように/異邦人の騒ぎを鎮め/暴虐な者たちの歌声を低くされる。25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。』

 実際イスラエル滅亡の時、神様は弱い者、貧しい者を守ってくれませんでした。そして暴虐な者の勢いを和らげなかった。この、当時の悲惨な状況をひっくり返したような終末思想は、新約にも継承されます。(受胎告知を受けたマリアの賛歌 ルカ1:52-54)イザヤ25章では、終末には全民族の救いがやって来ることを預言しています。終末のとき、神の国の祝宴は、イスラエルのみならず、全ての民が与るように招かれます。これまでの旧約とはことなる新しい救いであります。

 脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒で、祝宴を開くのは、主の晩餐式をさしていると思われます。私たちは、月初めの礼拝で、主の晩餐式で守りますが、そこでイエス様の体を象徴するパンを頂き、そしてイエス様が十字架で流した血を象徴したぶどう酒を頂きます。これは、イエス様との新しい契約であります。そして、主の晩餐式に与った私たちは、全ての人がこの主の晩餐式に与れるよう、イエス様と共に働くことを約束するのです。

『25:7 主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。』

 ここで、主はイスラエル民族の神に戻っています。すべての民の恥、全ての国の恥を拭い去ることに加え、イスラエルの恥を並べています。主は、全世界の神であり、そしてイスラエル民族の神でもあるのです。

『25:9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。』

 この節は、8節の続きではありません。9から12節が、モアブの滅亡の部分です。つまり、この直前の8節の時点では、モアブは滅亡しておらず、モアブから虐げられていたことを示します。

 その日、神の民によって、勝利の道で、敵に対してて、言われるでしょう。「見よ、これは我らの神であり、汝らの神々は無分別で無力な偶像である。」 その時を待ち望み、救い主の到来を預言しているのです。