ヨハネ18:28-38a

真理とは何か

 


『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。』

この訳は、否定形をにおわせていますが、「はい、そうです」と訳した方が適切だと思われます。実際に、原文のまま直訳すると、このようになります。

「あなたはわたしを王だと言いますが、わたしは、この目的のために生まれ、真理を証しするために、この世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声を聞きます。」

1.裁判の背景

 「総督官邸」とは、ローマから派遣されたユダヤの総督ポンテオ・ピラトの官邸のことです。ピラトはローマ皇帝ティベリウスからユダヤ州に派遣された第5代目の総督です。イエス様はピラトがエルサレム滞在時に使う「総督官邸」(通常は、カイザリアに駐在)に連れて来られました。時間帯は「明け方」であります。それは午前3時~6時の時間帯をさします。早朝の6時頃には官邸に連れて来られ、そして審議が始まったと言うことでしょう。こんな時間帯に審議?と思うかもしれませんが、ローマの役人の勤務は午前中であります。(午後は、ゆっくり入浴する習慣です。)

 イエス様を連行したユダヤ人側は「官邸に入らなかった」と書かれています。異邦人の家に入ると、儀式的に汚れたことになり、清めの期間が必要だからです。彼らが官邸に入らないものですから、総督が外に出て来るわけです。その官邸に行った目的は、死刑にするためです。そのためには、ローマ総督に引き渡たし、死刑の判決を下してもらわなければならなかったのです。その判定基準は、ローマ法です。従って、ユダヤの法では自分を神としたというだけで死刑の判決となっても、ローマの法では罪は問えません。だから、反逆罪など別な理由を作る必要があります。ユダヤ人たちは、イエス様のことを「ユダヤ人の王だと自称してローマに反逆しようとしている」と訴えて、死刑判決を願いました。一方で、ローマ側は、宗教的問題であったなら、自分たちの律法に従って裁きなさい、と突き返すことができました。実際、ピラトはそうしようとしたのです。ユダヤ人たちが自分たちの手でイエス様を処刑したとしても、ローマ側は目をつむったでしょう。しかし、一つ問題がありました。この時、イエス様の人気は高かったのです。それは、ラザロが生き返ったことが話題になっていたからです。

 官邸での審問が始まります。ピラトはこの審問で四つの質問をしています。第一の質問、「あなたはユダヤ人の王ですか?」。

 この頃、ユダヤ人の王はいませんでした。ヘロデ大王が死ぬと、彼らの息子たちは「四分領主」(テトラルキア)に任命されています。つまり、統治をまかされた属国からローマ直営の植民地に格下げになったわけです。そこにローマが任命していない「ユダヤ人の王」と名乗れば、充分に反逆罪を問えるのです。

2.官邸での裁き

 イエス様は、「ユダヤ人の王」だとは誰が言っているのですかと、問い返しました。ピラトは、ユダヤ人だと答えてます。

 第二の質問は、「あなたは何をしたのですか」です。ピラトには、ローマの反逆者扱いされるような点は見受けられないのに、という思いがあったのでしょう。イエス様はピラトの質問に直接ふれずにこのように言います。「わたしの国はこの世に属していません」。イエス様は、「私の国は、武力で治めるような性質を持たない」。このように、政治的反逆者でないことを主張しました。

 第三の質問は、「それでは、あなたは王なのですか」でした。イエス様は、「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです」と答えました。それは、ローマを剣で打ち破る民族国家の元首ではありません。イエス様は天に起源をもつ神の国の王なのです。この神の国は、この世の政治とは異なり、剣ではなく真理のことばで治められるのです。

 第四の質問は、「真理とは何ですか」。文献に残るローマ総督としてのピラトの行状を見ると、決して良い記録とは言えません。けれども、この場面で思わず、「真理とは何か」と口にしてしまいました。イエス様が語った神様のことばが真理であり、イエス様ご自身が真理であります。ピラトは真理であるイエス様を目の前にしていた。答えが目の前にあったのです。ピラトは裁く立場でありながら、もはや、イエス様の上に立ってはいません。ピラトは、ユダヤ人のところに再び出て行って、「私は、あの人には罪を認めません」と告げたのです。これで、第一回目の裁判である予備的審問が終わります。

3.その後

 ローマでの裁判は、予備的な審問を含めて三回の裁判です。第二回目の審問として、ガリラヤとペレヤの国主であるヘロデ・アンティパスのもとに送られました。そして三回目の裁判です。イエス様を釈放したいピラトは、ユダヤ人側に一つの提案をしました。当時、過越しの祭りに、要求のあったひとりの犯罪人を釈放するのが習わしがありました。所謂恩赦です。ピラトは釈放を提案したわけです。「あなたがたのためにユダヤ人の王を釈放しましょうか」と問いかけは、ナザレ人イエスはローマに対して暴動を起こさないとわかっていてのことであります。しかし、ユダヤ人たちが釈放を要求した人物はイエス様と異なり、ローマにとっては危険な人物でした。ユダヤ人たちは、神のひとり子イエス・キリストの釈放を選ぶこともできました。けれども彼らが選んだのは、バラバという政治的な活動者でありました。彼らは、罪からの救いと、いのちを与えて下さるイエス様を選ばなかったのです。

 この裁判で特に心に留めたいことは、イエス様がピラトの前で、ご自分が王であることを認めたことです。イエス様は、神の国の王であります。神の国とは、「神が王として支配する国」ということです。その王とは、イエス・キリストなのです。