ルカ23:44-24:12

 イエスの死と復活

 

1.イエスの死

 

 原文では、6時間目(正午)から9時間目(午後3時)まで全地は暗くなったとなっています。十字架にかけられたのは3時間目(午前9時)です。そうすると、十字架刑は6時間かかったことになります。神殿の垂れ幕とは、至聖所を覆う垂れ幕です。イエス様の犠牲によって、神様は神殿から自らを解放し、私たちの救いのために イエス様と共に働きを始めたことを象徴します。


『23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。』

 最期まで、イエス様は神様のみ旨に祈って従いました。それを見ていた百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と言いました。この百人隊長は十字架刑を何度も見ていたのでしょう。最後まで、誰にも恨み言を言わず、そして神様に祈ったその姿は、罪のない方、そして神の子であると確信したのでしょう。そして、百人隊長は神様を賛美しました。見物していた人々は、胸を叩きながら帰っていきます。この人々は、見世物の見物をし、そして祭司たちに誘導されて胸をたたき続けたのでしょう。一方でイエス様の知人やガリラヤからついてきていた婦人たちは、みんな遠くに立ってみていました。彼らは、12弟子以外の弟子たちと言ってよいと思われます。


2.墓に葬られる

 すべての福音書には、アリマタヤ出身のヨセフなる人物がピラトに願い出て、イエスの遺体をひきとって埋葬したことが記されています。ヨセフについて四福音書はそれぞれ、マタイは「金持ちでイエスの弟子」といい、マルコは「身分の高い議員」、ルカは「神の国を待ち望んでいた」「善良な正しい人」、ヨハネは「イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」人物としています。ヨセフは最高法院の議員でありながら、イエス様のかかわる議決には同意しなかったとありますから、イエス様の事を信じていた一人だったと言えるでしょう。もう、3時を過ぎていますから、日が暮れて安息日になる前に埋葬しなければなりません。(過ぎ越しの時に葬りはできない。葬りは日のあるうちに行う)ピラトに申し出て、急いで、遺体を十字架から降ろし、亜麻布で包みます。そして、ヨセフのために作った墓なのでしょう。まだ誰も葬られたことのない墓に納めました。そこで、その先は日曜の朝からとなります。すべての人は、日が沈む前に、安息日である過ぎ越しのまつりと除酵祭のために、準備を終えなければならないからです。ですから、遺体を清める(マイラとオリーブ油で拭く)ことは、出来ません。婦人たちは、ヨセフの跡をついてきて、その納められた状態を確認すると、家に帰り、日曜に清めをするために香油を準備しました。


3.復活する

 安息日は、金曜日の日没から土曜の日没までです。この間、だれも仕事をしてはいけません。婦人たちもそれに従いました。また、安息日が明けるのは、土曜日の日没です。暗くなっていますから、お墓に出ていくわけにはいきません。ですから日曜日の朝、香を携えて墓に行きました。

 ところが、墓は石で塞いでいたのに、石は脇に転がされており、墓の中にイエス様の姿はありませんでした。すると、天使でしょうか2人が婦人たちに話しかけます。

『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』


 ここで、婦人たちはイエス様が予告していたことを思い出します。しかし、イエス様の予告を聞き流していたのか、言葉通りには受け止めなかったのか、イエス様が他のしるしを示すことを期待していたのでしょう。つまり、イエス様の言葉を信じていなかったのだと言えます。(結局、復活したイエス様と会って、イエス様を信じたのです。)そして、十一弟子やほかの人たちに、その墓で起こったことを伝えます。みんなその婦人たちの話を信じませんでした。「復活なさったのだ」との言葉を受け取っていながら、また、イエス様の予告を何度も何度も聞いていたのにです。


『24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。』

 ペトロは、戸惑ったことでしょう。自ら確認のために墓へ急ぎます。そして、亜麻布しかない事に驚きました。それでも、イエス様の予告した「復活する」ことをまだ信じていないのです。「誰かが、遺体を盗んだ」と言うことも考えにくいです。それをするメリットは何も無いでしょう。ペトロ達が、イエス様の死を利用して、「復活した」と奇跡が起こったと宣伝し、伝道を進めるなら、メリットはあるでしょう。しかし、ペトロ達は、そのようなことを誰も考えていません。弟子たちは、実際復活したイエス様に会うまで、イエス様のことも、この奇跡のしるしも、信じることが出来ませんでした。