黙示録7:9-17

神様の約束

 2023年 11月 5日 主日礼拝 

神様の約束

聖書 ヨハネの黙示録7:9-17 

今日の聖書は、ヨハネの黙示録です。 ヨハネは大群衆が集まるのを見ました。その、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えられない大群衆」とは、いったいどこから来た人々でしょう。少し前の記事をみると、そのヒントがあります。

『7:4 わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。』

大群衆とは、神様の刻印を押されたイスラエルの子ら、14万4千人のことであります。ここで言うイスラエルとは、イエス・キリストを信じるキリスト教会のことをさします(ガラテヤ6:16-17)。また、14万4千という数は、12部族からそれぞれ1万2千人なので、その12倍であります。全ての部族が、まんべんなく救われること、そしてその数が多いことを象徴しているわけです。しかも、これはイスラエルだけの数字ですから、14万4千しか救われないと言う意味ではありません。そして、イスラエル民族以外の人々が、数えきれないくらい集まってきているのをヨハネは見ました。その様子を見ると、彼らは、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持っています。「白い衣」については、(イエス様の言葉(3章4-5節)からみると)その衣を着ている人が汚れていなかった、つまり罪を犯さなかった者を象徴しています。そして、罪に染まらなかったことを称えて、「勝利を得る者は白い衣を着せられる」のです。これは、信仰を守った人々の勝利を示します。それから手のひらとナツメヤシも、勝利のしるしであります。ですから、白い衣を着ている大勢の群衆は、勝利を得た者たちであります。イエス様がエルサレムに入城したとき、群衆がナツメヤシの枝を敷いて、イエス様を歓迎しました。そのときの群衆は、イエス様を、戦争に勝利した王様のように、喜びを持って迎えました。その群衆と同じように、白い衣を着た大群衆も、手になつめやしの枝を持っているのです。彼らは、玉座と小羊の前に立って、大声でこう叫びました。

『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』


 この叫びは、信仰告白だと言えます。そして、信仰告白の言葉に続いて、天使たちも、玉座の前にひれ伏し、神様を礼拝してこう言うのです。

『「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン』。


 この天使たちの言葉は、「アーメン」で始まり、「アーメン」で終わっております。最初のアーメンは、大群衆の信仰告白『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』に対して「確かにそうですね」との同意を示したものです。もともと、アーメンは「そのとおりです」とか「たしかに」と言う意味だからです。そして、天使たちも、自分たちの信仰告白として、賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力を世々限りなく と、神様に求めているのです。そして最後に「アーメン」。この最後のアーメンは「そのとおりです」と言う意味に加えて、「では、そうしましょう」とも訳されます。これは、行動を約束したアーメンなわけです。このように、天においては、白い衣を着た群衆と天使たちが、心を一つにして神様とイエス様を礼拝して、そして行動しようとしているのです。


ここで、長老の一人がヨハネに質問します。そこには24人の長老がいて、玉座の周り座っていました。(『4:4 また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。』)


『すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」』

この問いを向けられ、答えているのはヨハネです。長老にではなく、神様と小羊に向かって答えます。

『わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです』

すると、長老はまた、ヨハネに言います。


『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。』


 この長老は、もともと白い衣を着た大群衆が、どういう経緯でやってきているのかを知っていました。ですから、ヨハネに確認のために聞いたのではありません。むしろ、自分で答えるために、ヨハネに聞いたのだと思われます。つまり、その長老は、ヨハネに「白い衣を着た者」のことを書き残させようとしたのです。それほどに、大事な記事だと言えます。

 この記事には、白い衣を着た者たちは、どのような者たちであるかが記されています。彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした者でありました。ここでの「大きな苦難」とは、何を指すのでしょうか? 世の終わりに起こる苦難、そして、私たちがこの世で受ける苦難、どちらも考えられます。私たちは神の小羊イエス様の十字架の血によって、罪を赦されました。そして、その信仰を世の終わりまで保ち続ける。そうすれば、イエス様の血によって私たちの衣は白くなります。なぜならば、イエス様が流した十字架の血によって罪が赦され、私たちは勝利するからです。ですから、ここに描かれているヨハネが見た景色は、将来の私たちが神様を礼拝する姿であります。また、大きな苦難が世の終わりの苦難であっても、この世の苦難であっても、それらの苦難に負けることなくイエス様への信仰を守り通した者が白い衣を着た人だ と理解することができます。

 ところで、「この白い衣を着た者たちは、殉教者である」と解釈があるようですが、その根拠は薄いようなので、ここは、素直に私たちの将来であり、イエス様の血によって勝利を収めた者たちと理解したいと思います。

 ここの記事には、『その衣を小羊の血で洗って白くした』とあります。衣を血で洗って、白くなることはありませんから、明らかに比喩であります。衣が白くなったことは、罪が無い状態となったことを表しているのです。イエス様の十字架の犠牲。その小羊の血によって、イエス様を信じる私たちの罪が赦されたからです。

 私たちはイエス・キリストを信じて、イエス様の十字架の血によって、罪を赦されました。私たちが白い衣を着ることができるのは、イエス様の十字架の血によって、あらゆる罪から清められるからです(一ヨハネ1:7)。私たちは、信仰を公にした後に、バプテスマを受けました。このバプテスマは、「イエス様を神様として信じ、私の罪のためにイエス様が十字架で血を流し、死に、墓に葬られて、そして復活をしたことを信じる」者に授けられます。そしてバプテスマの時、聖霊が降り、新しい命を頂いたのです。ですからバプテスマは、罪に染まった自分が一度死んで、イエス様が十字架で流した血によって、罪のない者に生まれ変わることです。白い衣を着た者は、そのイエス様への信仰のために、罪のない者に生まれ変わったのです。

 白い衣を着た者たちは、イエス様の血によってあらゆる罪から清められたので、神様の玉座の前にいて、昼も夜も神様に仕えることになります。彼らはまさに、天使と同じような生活をすることになります。今日の聖書箇所の最後、3節分は、「天において受ける白い衣を着た者への祝福」が記されています。これは、旧約聖書の預言が実現したことを示します。「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る」とは、神様が、御自分の民の「ただ中」に宿ってくださるという約束が実現することを示します(出エジプト29:45、レビ26:11等)。その預言の一例をあげます。

エゼキエル『37:2わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』

これは、エゼキエルがバビロンに捕囚されたイスラエルの民への預言です。この、神様の約束が実現する姿をヨハネは見たのです。


 また、16節、17節は、イザヤ書49章10節にある預言の実現であります。

 イザヤ『49:10彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。』

 このイザヤ書のみ言葉を読みますと、白い衣を着た者たちへの祝福こそが、旧約聖書で示された神様の約束の成就であると言えます。私たちを湧き出る水のほとりに導く、憐れみ深い方こそ、神の小羊であるイエス様でなのです。


 ヨハネは『小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き』と記しております。その小羊とは、イエス様の事です。イエス様こそ、私たちのために命を捨ててくださった良い羊飼いなのです。

そして、神様が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるのは、悲しみの終わりを意味しています。これも、旧約聖書の預言が成就したものであります。


 イザヤ『25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。25:7 主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。』


 イザヤの預言は、世の終わりの時、イエス・キリストを信じる者たちの上に、実現します。聖書の預言は、神様の約束です。神様の約束は、イエス・キリストを信じる私たちの上に実現するのです。私たちは、そのことを信仰をもって待ち望んでいきましょう。