マタイ14:1-21
五千人の給食
五千人の給食
1.バプテスマのヨハネ
バプテスマのヨハネは、AD29年に首をはねられたという、聖書を根拠にした説があります。しかし、史実を言うとAD32年です。イエス様の十字架が聖書からはAD30年と読み取れますので、イエス様よりもバプテスマのヨハネの方が長生きしているわけです。しかし、イエス様の方も、十字架の出来事がAD32年前後ではないかという説もあり、バプテスマのヨハネの死がきっちり記録されているのと比べ、はっきりわかりません。
バプテスマのヨハネは、死海の傍のクムラン洞窟で生活をしていたクムラン教団との関係があると思われています。クムラン遺跡がエッセネ派であろうというのが定説になりつつありますし、クムランで見つかったクムランの規則が、歴史家ヨセフスの書いたエッセネ派の記述と詳細に一致しているからです。そして、クムラン遺跡には、バプテスマ用のプールが多数ありました。そして、大量の水を使うために、大きなため池がありました。エッセネ派はその沐浴の為に大量の水が必要だったのです。日々、そのプールで沐浴をし、清潔にしていただけではなく、儀式的な沐浴を大事にした教団であったことがわかっています。(ユダヤ教では、清めのための沐浴を行います。清めには、「手を洗う」、「食器を洗う」、「身が汚れた時に体をきれいにしてから全身を3度完全に水の中に沈める」の三つがあります。)
今の様に儀式的な沐浴は一回などと言うことではなく、エッセネ派では何度も特別な沐浴を行っていたようです。また、バプテスマのヨハネがヨルダン川で水によるバプテスマを授けていたということですから、エッセネ派が大量に水を必要としていた点から考えても、バプテスマのヨハネの行ったバプテスマはエッセネ派の儀式的な沐浴と近いと考えるのが自然です。また、最後の晩餐をする場所を探す場面が聖書に出てきますが、ここに大きな水瓶を持った男が現れます。当時、この国では水を汲むのは女性の仕事でした。男が汲むということは、異常なことですが、エッセネ派は、基本男しかいません。つまり、そこはエルサレムのエッセネ派の人々の住む地区だったのです。(男が水をくむのはエッセネ派しか考えられない)そういう意味で、エッセネ派とバプテスマのヨハネとイエス様がつながってくるわけです。しかし、イエス様自身はエッセネ派の中にはいなかったようですし、弟子たちもユダヤ戦争の時には、別行動をとっています。
ヘロデアンティパスの妻は、バプテスマのヨハネを殺そうと思っていましたが、ヘロデアンティパスは、良くヨハネの教えを受けていて、意図して生かしていたようです。なぜかと言うと、人気のあるバプテスマのヨハネですから、反乱などが起こっては大変だからです。しかし、このように誓ったことを翻すわけにもいきません。
2.五千人の給食
五千人は男の数です。ですから2万~4万人いたということになります。一人に1個百円でパンを配ったとして、400万円ということで、店もなければお金もない状態で、食事をさせようとすることは、無謀なわけです。弟子たちは、現実的な判断として群衆を帰らせようとします。しかし、イエス様は「そこにある物」を出して食べさせるように言います。そして、皆が満足したということです。この主題は、この非現実的なことが起こされたと考えるか、合理的に考えて、「しるし」を否定するかで、大きく変わります。
受け止め方を3つ挙げてみました。
① イエス様は、ここで「しるし」を行った。(本当に5千人にパンを与えた)
② イエス様が食べ物を持ってきたので、皆が持っている分を出し合って、分け合った。
③ イエス様の教えによって、皆が満足した。
結論から言うと①だということです。最初に消去法できるのは②です。なぜなら、道徳話だからです。
信仰の話ではないとしたら、この後四千人の給食の話にも出てくることは不自然です。道徳的に「分かち合って食べましょう」との教えを たくさんあるエピソードの中から2回も取り出さないと思います。 それから、ここに集まった群衆は、最貧層の人たちです。どこかの荘園の小作農などなのでしょうから、領主にかすめ取られています。ヘロデやローマにも税金を納めている当時は、持たざる者はひどく虐げられていました。多くの人が、パンを持って来ていて、それを食べて満腹するようなことは無いと言ってよいでしょう。
③については、このような自画自賛を書くために、五千人を動員するような、設定はいらなかったと思われます。やはり、信じられないようなことを起こしたと考えるのが自然です。「しるし」は、信じている者には「しるし」としてわかります。そして、信じている人は「しるし」が示されることを期待するでしょう。
しかし、信じていないものにとっては、「しるし」を見ても、それとわからないのです。