2025年 5月 11日
「神様の権威」
聖書 ルカ7:1-10
今日の聖書の箇所は、ルカによる福音書からです。4つの福音書は、視点に違いがあります。そして、今年度の宣教に使う福音書は、主にルカによる福音書としています。ですから、1年を通して、ルカの視点で、福音を学んでいきましょう。
さて「百人隊長」ですが、昔は「百卒長」と訳されていました。その元の言葉は、ケントゥリオ(ラテン語: centurio)です。ケントゥリオとは、古代ローマ軍の最小部隊であるケントゥリア(百人隊)の指揮官のことです。どれくらいの階級の人かと言えば、旧日本軍では少佐。自衛隊で言えば3佐ぐらい、今の普通の職場でいう課長クラスと言えます。なぜそうなのかというと、昔も今もあまり変わりません。一兵卒から昇進した場合に、この地位はほぼ最上位で、最も優秀な者だけが到達できるからです。兵士たちの上に立って、直接部隊を牛耳る立場の百人隊長は、たたき上げの軍人、つまり体育会系の人物でなければ、なかなか務まりません。それに加え百人隊長は、部下の指導・教育および任地での政務など、軍の重要な役割を果たしていました。とても大変な役割なので、副長と、その下に8人で構成される10の小隊がその役割を支えます。そうした部下の統率があって、はじめて、百人隊長の命令は必ず実行されるのです。ですから、ローマの思想であるパックス・ロマーナ(ローマによる平和)を一兵卒まで浸透させるのも、百人隊長の勤めです。そのためか、「ローマ軍団の背骨」と称えられるほど、百人隊長には尊敬が集まりました。一つ、知っていてほしいのは、ローマの百人隊は、単独では動かないことです。ローマ軍の最小遠征単位は、百人隊2つです。それは、日本の戦国時代の「備え」と似ています。軍隊では、宿舎や兵糧などの支援がないと、寝るところもなければ、食べるものもすぐなくなってしまいます。さらに、部隊を守るための堀や柵が必要ですし、攻めるためにも櫓を建て、破城鎚(つち)を組み立て、トンネルを堀ることが必要です。それですから、戦争には土木や建築が伴います。そのような後方支援部隊があって、初めて百人隊は戦えるのです。そのことを理解いただくならば、今日の聖書に出てくる百人隊長は、少なくとも1つの百人隊の長ではなくて、2つ以上の百人隊と後方支援の部隊を指揮する立場にあったものと言えます。その立場であれば、その支配下にある後方支援部隊を使って、土木工事をすることが可能でした。だからこの百人隊長は、ローマ軍の力を背景に、ユダヤ人のために会堂(シナゴーグ)を建てることも出来たと言えるでしょう。そして当然ながら、百人隊長は駐在している地域の行政に深くかかわります。この百人隊長は、シナゴーグの建設などを通して、この地域の人々と良好な関係を保っていたと言えます。そして、どうしてシナゴーグまで建てるのか? と想像を膨らましてみましょう。この百人隊長は、異邦人でありながら、神様を恐れる者つまり、異邦人の信徒だったと思われます。
さて、この百人隊長ですが、瀕死の部下の癒しを、イエス様にお願いするために、ユダヤ人の長老を使いに出しました。たぶん、その部下と言うのは、副長か、もう一人の百人隊長か、この百人隊長の家を治める家宰なのでしょう。どの立場だとしても、彼の指揮する部隊では重要な人物でありますので、その病気の治癒のために、万全を期したはずです。しかし、手を尽くしても癒されない今、評判の高いイエス様に頼りたい といったことだと思われます。しかし、仕事を差し置いてイエス様に直接お願いするわけには行きません。そこで、ユダヤ人の長老を使いに送り、イエス様に伝言します。
この話を聞いたイエス様は、腰を上げて百人隊長の家に向かいます。そしてすぐにも到着するというときに、百人隊長はイエス様の来訪を断りました。しかも、本人ではなく 友人に断ってもらっています。いささか失礼ではないか?と誰でも思うでしょう。本来、自分自身で出迎えて、平身低頭でお願いしなければならない と思うからです。しかし福音書を書いたルカは、別の視点で見ていました。この百人隊長の並外れた信仰を見たのです。この百人隊長は、イエス様に信頼していました。信じていたと言ってよいでしょう。部下を助けるためにイエス様は来てくれると信じていましたし、必ず癒されると考えていたのです。それを考慮したうえで、この百人隊長の言っていることを理解したいと思います。それは、彼の百人隊長としての経験から、彼は皇帝を信じ、部下は彼を信じている。同じように、彼は、イエス様を信じているのです。
『7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」』
この言葉は、まさに軍隊組織の論理であります。信仰を「命令に対する応答」と理解する姿は、軍人として体に叩き込まれた彼の生き方そのもののように見えます。「すべては、自分が従っている権威の下にあります。だから、命令が降ったら、その指示に従う」。これは、権威ある者に従う者の姿です。百人隊長に権威があるのは、あくまでもその上の権威であるローマ皇帝によって指示されているからです。この百人隊長は、「権威のもとにある者」です。その権威とは、「言葉」です。「言葉」がすべてを支配し、動かしていく。「言葉」こそまことの「主」なのです。ですから彼は、直接イエス様が来なくても、「言葉」を頂ければ十分と伝えました。
『ひと言おっしゃってください。そして、わたしの部下をいやしてください。』おそらく百人隊長は、病気の部下が元気を取り戻すように祈り、そして必要な医者も呼んでいたと思います。それでも、治療の効果が期待ほどではなくて、イエス様に使いを出しました。それなのに、彼は部下を直接診てもらうのではなく、「ひと言おっしゃってください」、「いやしてください」とだけ伝言したのです。
イエス様に「癒してくださいと 祈るようにお願いする」ことは、わかりますが、とてもわからないことがあります。なぜ、一言 言うだけでよいのか?です。私たちが一言 言うとしたらどんなことを言うでしょうか?「お大事に」とか「必ず良くなるよ」、または「もう大丈夫」でしょうか?。それは、気休めにしか聞こえないでしょう。それでも、思いやる気持ちを汲み取ってもらえることはできるしょう。百人隊長も、部下を思いやって、何とかしたいと手立てを尽くしました。そして、力づけ、励ましになるような言葉をかけました。しかし、どんな言葉をかけても、病気は良くならなかったのです。そして、ますます悪くなると、百人隊長は自身の言葉の無力さを、感じたに違いありません。それなのに・・・「ひと言おっしゃってください」これが、イエス様に伝えたお願いでした。
ところで、わたしたちは、病気の人に「希望」を持つような言葉をかけられるでしょうか?。だれしも欲しいのは「希望」です。今日一日だけの命だとしても、人は今日一日を生きる「希望」が必要だからです。だけど、その「希望」の言葉は、見つかるでしょうか?。ただ、「必ず良くなるよ」、または「もう大丈夫」では、十分ではありません。その言葉が出ないことに限界を感じます。だから、百人隊長がしたように、イエス様に「ひとことおっしゃってください」と 願い、祈る。それが最上の「言葉」なのかもしれません。百人隊長は、日ごろ命令し従わせることで、権威を示してはいるけれども、人の命に対しては、まったく無力な存在でしかありませんでした。つまりこの百人隊長は、私たち同様に、人の生き死については無力なのです。戦争の時、部下の生き死にを命令できる百人隊長なのに、病に対してはどうしようもないのです。
ルカの記事には、もう一つ知りたいことがあります。百人隊長は「ひとことおっしゃってください」と求めました。たぶん、イエス様はその言葉に答えました。しかし、どんなことを言ったのか、ルカの記事には何も残されていません。そして、短く、
『7:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。』とだけでありました。
おそらくルカは、福音書を読む読者に、暗に問いかけているのです。「ひとことおっしゃってください」この求めに、イエス様はどのようなみ言葉を語ってくださったか。・・・初代教会も、中世の教会も、また現代の教会にあっても、そこが問われています。イエス様は、何を言われたのか?そして、私たちは、どのようにイエス様の言葉を受け止めるのかをです。
私はこう思います。イエス様は、たぶん「あなたの信仰によって、あなたの部下に命じます。治りなさい。」と言ったのだろうと。・・・ですから、その部下はすぐに癒され、そして、癒しは完全なものでした。百人隊長の言うように、イエス様の命令があるだけで、それは満たされることが約束されていたのです。百人隊長は、イエス様が命じればそれは成就すると信じていたからです。そして、イエス様も神様に祈れば、それは必ず聞かれると、確信していたのです。それは、彼自身が日常の仕事で、皇帝から人々を裁く権威を与えられていること、そして地域の人々の願いは彼自身が誠実に受け止めて実現させているからです。人々の真摯な願いは実現すること を百人隊長は身をもって知っていました。それ以上に、権威のあるイエス様です。この願いを聞いて、癒してくださる。そう信じていたのです。それは、キリストに従う私たちも見習いたい信仰です。この百人隊長には、私たちが魅せられることが、3つあります。人間として、役人として、そして最も大事なのは、信仰者として、の魅力です。
第一に、百人隊長の、部下の癒しを願い最善を尽くすやさしさ。そして、第二に、 ユダヤを配下に治めるローマの代表として、彼はしっかりと権威を示しています。第三に、彼が異邦人の信徒であっただろうと言うことです。だから彼は、イエス様を信じ、部下の癒しを願いしました。
百人隊長の行動は、イエス様とつながっていることの大事さを示しています。彼の部下の病のことですから、個人的な意味で「彼が愛する」人物であり、個人的なつながりから、最善を尽くしていました。しかし、不十分でした。イエス様のとりなしがあってこそ、その思いは強くつながるのです。だから、イエス様により頼んで祈れば、そして神様の導きを信じれば、神様はその願いを聞いてくださいます。その、神様の権威を信じ、そして祈っていく。その物語がが福音なのです。このことを心に温めてまいりましょう