2024年 9月 22日 主日礼拝
『すべてのものは、神から』
聖書 ローマの信徒への手紙11:25-36
今朝のみ言葉は、使徒パウロが書いたローマ書からです。一般的にローマ書は難解だと言われますので、読み解きながらみ言葉を取り次ぎたいと思います。まず、最初にパウロは「兄弟たち」と呼びかけていますが、この兄弟たちとは、ローマにいる異邦人クリスチャンたちです。当時ユダヤ人から始まったキリスト教会は、ローマ人などの異邦人が増えて成長していきます。当時のローマの教会はすでに、ユダヤ人ではなくて、異邦人が中心となっていたのです。そのためでしょうか。ローマにいる異邦人信徒は、「イエス様を信じないユダヤ人は、神の民としての特権を失ってしまった」とか「ユダヤ人への神様の祝福は、なくなった」などと、言い出していました。それに対してパウロは、「神様は決してイスラエルの民を退けない」と反論します。そしてローマの人々が、うぬぼれないないようにと、「神様の秘められた計画」を知ってほしいと言います。ここで、「秘められた」と言うのは「今まで隠されていた」ことを意味します。それは、この書の最後(16:25,26)に書かれています。要約すると、「救いの計画は、世々にわたって隠されていました。それが、今や現われて、すべての異邦人が知るようになりました。」と言うことです。神様による救いの計画は、今は神様によって示されていて、私たちも知ることができるのです。
その秘められた計画についてパウロは このように語ります。
『11:25~一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、11:26 こうして全イスラエルが救われるということです。』
当時、ユダヤ人の多くは、イエス様を受け入れませんでした。神様からの良い知らせである福音を拒否していたのです。神様は、彼らをかたくなにするよう計画しました。それは、神様が、ローマの人々をはじめとして、異邦人を救うためであります。そこに、パウロは神様の計画の深さを感じています。神様は、異邦人を救いました。そして神様は、祝福を受けている異邦人をイスラエルの民に見せました。それは、イスラエルの民に悔い改める機会を与えるためです。パウロは、「神様はイスラエルの民を捨てるようなことはない」と信じていたのです。そして神様が計画した通り、「イスラエルの中から悔い改めて主を信じる者が起こされる」ようになる。こうして、イスラエルの民、異邦人などの区別がなく、全世界の人々に福音が伝えられるのです。 神様は、不信仰なイスラエルを顧み続け、彼らを救うと 約束しています。(それは、旧約聖書に一貫して記されています。)そして、神様は約束を守る方なのです。
そのことを歌ったのが、26~27 節で、その元になるのが、イザヤ書です。
イザヤ『59:20 主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。59:21 これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると/主は言われる。~』
ここで主と書かれているのは神様の名前ヤハウェで、原文では2回使われていますが、主が3回出てくることから明らかに意訳であります。試しに直訳してみると、「贖いはシオンに来る、ヤコブの罪から立ち返る者に、とヤハウェは言う。これが彼らとの私の契約だ、とヤハウェは言う。」となります。ここで、おやっと思うもう一つは、イザヤ書では「シオンに来る」との預言なのですが、ローマ書では、「シオンから来る」となっていることです。なるほど、と思いました。旧約では救い主がシオンの町(すなわちエルサレム)に現れる福音を預言し、新約聖書では、すでにシオンの町に現れた福音が、各地に広がったことを証ししているのです。また、ローマ書の「ヤコブから不信心を遠ざける。」については、その箇所に相当するイザヤ書から読みとる必要があります。
ヤコブとは、イスラエル民族として最初に神様と契約した人です。つまり、「イスラエル民族が罪を犯し続けている」こと、そして「福音は自身の罪を悔いるイスラエル民族のもとに来る」こと、をイザヤ書は預言したわけです。
パウロは続けます。
『11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。』
ユダヤ人の多くはこの時、キリスト教を迫害し、神様に敵対していました。しかし彼らは、先祖であるアブラハム、ヤコブとの契約のために、神様から愛され続けます。そして『11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。』とパウロが言います。神様は約束を取り消すような方ではありません。ご自身が計画し、約束されたことを必ず最後まで果たすのです。
最後までと言いましたが、最後とはいつか? それは、歴史の最後にイスラエルの救いが来るということなのか? と疑問を持ちます。パウロはその疑問にも答えています。 「今は、イスラエルの不従順によって異邦人に救いの祝福が来ている」とパウロは言っているからです。それは 、イスラエルは今は不従順であるにもかかわらず、救いのあわれみを受けることを示します。では、その憐れみを受けるのはいつでしょうか。パウロは明らかに「今」と言っています。イスラエルが救われる業は、パウロの時代にすでに始まっていたのです。神様は、イスラエルへの福音伝道と異邦人への福音伝道を 色々なやり方で進めています。そして、ついにはイスラエルを含め全世界の人が救われる日が来ます。
さて今日、私たちが心に留めたいみ言葉はこの部分です。
『11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。11:31 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。』
パウロはここでイスラエルへの望みを示しています。まず、異邦人の受けた憐れみについてです。「あなたがたはかつては偶像を礼拝していたので、神様に不従順でした。しかしその偶像礼拝の罪が赦されるという大きな憐れみを受けました。」と パウロは説明しました。これは、異邦人のクリスチャンが経験したことそのものです。同じように、今、神様に不従順であるイスラエルの民は、将来、より大きな憐れみを受けます。そして、すべての不従順だった人は同じように憐れみを受けます。だから、今は不従順の状態にあるイスラエルですが、救いようがなく、終わっている のではありません。神様はその不従順なイスラエルの民や私たちでさえも、憐れんでくださいます。そのことをパウロは神様の意図だと、このように言いました。
『11:32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。』
神様は、すべての人を不従順に閉じ込めました。決して不従順であることを、神様が願っているわけではありません。しかし、神様への不従順は悪であり、罪そのものであります。全ての人は、その罪にふさわしく不従順の牢獄に閉じ込められるのです。ところが、神様は、その不従順の牢獄の中にいる私たちをも憐れみました。不従順によって入れられた牢獄から私たちは自分の力で脱出できないからです。神様の憐れみによって救い出してもらうしかないのです。神様は、私たちを牢獄に閉じ込める手段を取りました。それは、すべての牢獄に閉じ込められている人々を、罪から救うためです。私たちはこの驚くべき神様の目的を受け止めたいです。たしかに、私たちは、神様を知りませんでした。それは、罪であります。でも、そのことに気づいて、自分で何ができるでしょうか? ただただ、罪をお赦しくださいと 祈ることしかできません。それしかできないのに、その祈り、つまり、イエス様の贖いを信じて信仰を告白し、赦しを求めるだけで、神様は私たちを不従順の牢獄から出してくださるのです。私たちもかつては不従順の中にありました。神様に従わない状態にあったのです。しかしそれは実は神様が憐れんでくださったからこそ、一時的に閉じ込められたのです。・・・それは、私たちの魂を救うためでした。神様は、イスラエルの民も異邦人も、全ての人を救おうとされているのです。今、不従順な人であろうが、神様は憐れみを与えようと、すべての人々を導いているのです。・・・何とすばらしいことでしょう!
『11:33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。』
ここの「神の定め」とは、「神様の知恵、知識」を指し、「神の道」とは、「神様のやり方」を指します。それは私たちの思いをはるかに超えたものです。パウロは続けます。『11:34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。11:35 だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」』
当然ながら、この知恵は、私たち人間から出て、神様に教えたものではありません。従って結論は一つです。
『11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。』
神様の救いのみわざは、ただ神様から始まり、神様によって導かれ、最終的にイエス様の福音によって、神様の栄光へとつながって行くのです。ほめたたえられるべきお方はただ神様お一人。すべての栄光はただ神様にのみにあります。私たちは神様の偉大さ、憐れみの大きさに圧倒されるばかりです。
今日の聖書が示しているのは、「人間では思いもつかないような知恵と知識をもって私たちを憐れんでくださる神様」です。その神様の前で、私たちは憐れみを受けているのです。特に心に刻みたいのは、「神様は、不従順な者さえ憐れんでくださり、不従順に閉じ込めたあとに、救おうとされている」事です。思い返すと、私たちも不従順のただ中から神様の憐れみの中へと導かれた一人であります。この一人一人への恵みは 神様から出て そしてその栄光は神様に向かっています。そのことを思うと、今、どんなに神様から遠い人にも、望みがあります。神様がどのように導くかはわかりません。しかし、神様は不従順な者さえも、神様の憐れみの中へと導くのです。私たちはこの神様の憐れみに応えて、救いの唯一の道である、イエス様の福音を伝えたいと思います。神様が私たちを憐れんでくださった。すべては、そこから始まりました。そして私たちは、神様の栄光とともに歩む者として用いられているのです。この恵みを喜び、そして感謝いたしましょう。