マタイ21:1-11

十字架に向けて

2023年 4 2日 主日礼拝  

十字架に向けて

聖書 マタイ21:1-11

 受難週となりました。今日はマタイによる福音書の棕櫚の日曜日の記事からみ言葉を取り次ぎます。棕櫚の日曜日とは、イエス様が十字架の死から復活する一週間前に、エルサレムに入城したことを記念する日です。このとき、イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに向かいますが、群衆はその道を棕櫚の葉で覆って、出迎えたことに棕櫚の日曜日と呼ばれる所以があります。

 さて、エルサレムで棕櫚と言えば、ナツメヤシのことを指します。大変生命力のある木で、実(み)はデーツと呼ばれて食用になります。そして、道に敷くために使われたのは「枝」だと書かれていますが、枝の「木」の部分は使わないで、葉っぱの方だけを敷きます。つまり、ユダヤの王を迎えるために、即席の絨毯を作ったわけです。またある人は、自分の着ているマントを広げました。マントを敷くのは、王様に従うことを示します。(列王記下9:13)イエス様は、エルサレムに入った時、多くの人たちから「イスラエルの王様がやってきた」として歓迎されたのです。たぶん、人々はイエス様が「武力をもってローマから解放してくれる方」と考えていたと思われます。イエス様が神様のご計画を成就するために十字架にかけられることなどは、人々が知るわけもありません。ですから、ローマを良く思っていない群衆は、「ホサナ」と叫んでイエス様を歓迎したのです。ホサナとは、ヘブライ語で「どうか、救ってください」を意味する 言葉ホーシーアー・ナーの短縮形です。


 いよいよエルサレムに近づいて、イエス様はオリーブ山のふもとのベトファゲにさしかかりました。ベトファゲは、イエス様が宿泊したベタニアよりエルサレムに近い村です。死海の北側の町エリコからイエス様が移動してきましたから、その街道沿いにあるベトファゲを通って、エルサレムに入城します。このときに、子ろばに乗りました。イエス様は、その日マルタとマリアの姉妹がいるベタニア(15スタデイオン(15×185m≒2.5km)離れた村)に泊まりますが、エルサレムとベタニアの移動には、子ろばは使っていません。エルサレム入城の時だけ子ろばに乗ったのです。それは、こんな預言があるからです。


ゼカリヤ『9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろば(雄)に乗って。』


 イエス様は、イスラエルに勝利を与えるために、エルサレムに上ってきました。ですから、この預言どおりに、エルサレムに入城する直前の村で子ろばを手配します。ろばは、イスラエルでは普通に家畜として飼われていましたので、子ろばはすぐに見つかりました。若い(4歳以下)「雄のろば」で、誰も乗ったことのないろばでありました。二人の弟子が子ろばを連れて戻ってくると、自分たちが着ていたマントを脱いで、子ろばの背中に敷きます。マントを敷くというのは、「従属します」との意思表示でもあります。子ろばに乗ったイエス様を見たエルサレムの町の人々は、イエス様を歓迎したのです。


 イエス様がエルサレムに入城することを知った人々は、町から出てきて、イエス様を歓迎するためにマントを広げて道に敷きました。また、ナツメヤシの枝から葉の部分をとって、道に敷き詰めます。こうして、ユダヤの王としてイエス様はエルサレムに入ったのです。大勢の人々がイエス様を先導し、そして後ろからもついてきました。そして、マントを道に敷いてイエス様への従属を誓ったわけです。このようにして、エルサレムに入城したとき、イエス様は人々の期待を集めたのでした。もともとイエス様は、教えと癒しで人気があって、イエス様を信じた人も多かったのです。また、敵対しているように見える最高法院の議員にもイエス様を信じる人がいたようです。イエス様を迎えた群衆は、ホサナ「どうか、救ってください」と叫んで、ローマの支配からの解放を願ったのでした。それは、「ダビデの子ホサナ」との叫びとなります。イスラエルの王であるダビデ、その子孫であるイエス様に王国を復興してくださいとの意味だからです。


 『21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。』


 過ぎ越しの祭りに各地から集まった人々は、イエス様のことについて「どういう人だ?」と聞きました。イエス様を歓迎していた群衆は、「預言者イエス」だと言います。この反応からみて、まだイエス様の名前は知れ渡っていなかったことがわかります。それでも、ガリラヤから来た人々やエルサレムに住む人々の多くが、すでにイエス様に会っていましたし、イエス様の奇跡も知っていました。そして、ユダの国を解放する救い主だと期待していました。だから、イエス様がそういった政治的な救い主ではない事に、誰も気づきません。そういう意味で、都中の人が「騒いだ」というのは、救い主が自分たちのところに来てくださったという純粋な喜びとは言えないのです。 

 このとき、過ぎ越しの祭りのために、ユダの国の内外から人々がエルサレムに集まってきていますから、都中の人々とはエルサレムに住んでいる人だけではなく、エルサレムに集まった全ユダヤ人だと言えます。ガリラヤから来た人々やエルサレムに住む人々はイエス様の事を直接知っていたでしょう。しかし、ほかの地方の人々は、うわさでしか知らないわけです。そこへ、ガリラヤから上ってきた群衆でしょうか? イエス様の事を説明します。

「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」少し誇らしげに答えます。子ろばに乗ってやってきたイエス様は、ナザレの出身。王様としてふさわしい見栄えではありません。それでも、イエス様が救い主であることを期待する人々は歓迎したのです。しかし、その姿はみすぼらしいものでした。それでも、子ろばに乗ることによって、救い主であることが示されました。そして、ナザレという田舎から預言者が現れたことが示されたのです。まさに、救い主は、貧しいものたちに寄り添うお方である。そのことが示されたのです。


 さて、二人の弟子が、まだだれも乗ったことのない子ろばを「主がご入用なのです」と言って連れて来ました。なぜそのようなことをイエス様が命じたのでしょうか? また、イエス様がエルサレムに入場することで、何が起こるのでしょうか?。弟子たちも、そしてイエス様を歓迎した群衆たちも、わかりませんでした。弟子たちは、エルサレムに向かって旅をするイエス様から、何度も「人の子は必ずそこで多くの苦しみを受け、指導者たちから捨てられ、殺され、三日後によみがえる」ことを聞かされていました。しかし、だれひとりとしてそのことを正しく受け止めていなかったのです。イエス様と寝食を共にし、イエス様の話をいつも聞いてきた弟子たちがイエス様に起こることを理解していなかったのです。しかしイエス様はそれを知りながら、黙々と、預言どおりのメシアつまり「捨てられ、殺され、よみがえるメシア」(イザヤ53:3)として、子ろばに乗り、王様のように歓迎されて、エルサレムに上ったのでした。「子ろばの背に乗って来られる王」というのは滑稽な景色ではありますが、そのイエス様が入城する時の姿は、平和と柔和さを象徴します。イエス様はゼカリヤの預言をもとに、「子ろばを連れてきなさい」と弟子たちに命じました。イエス様は、馬やラクダでは駄目だったのです。イエス様は、弱った人々に寄り添いましたから、いつも同じ目線の高さで人々に接していました。子ろばに乗ったイエス様の目線は、群衆と同じくらいの高さだと思います。これもまたイエス様にある平和を現わしていると思います。軍隊を率いた武力によって、人々を上から支配するような王様は、本当の平和をもたらさないからです。 エルサレムという町。この名前は、「平和」を意味します。イエス様は「平和の町」の王として、子ろばに乗って入城したのです。

 神様の計画に従って、イエス様はその時、十字架の死と、復活に向き合っていました。そして受難を向かえます。十字架の記事を読みますから聞いてください。

 『27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。27:47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。27:48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。』


 イエス様は、大声で叫ばれました。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

もちろん、イエス様はその答えを知っています。

「私たちの罪を赦すために、神様がイエス様を生贄にしたのだと。そして、その後のイエス様の復活によって、私たちに永遠の命を齎すためであると。」

それでも、親が、子を死に追いやる・・・その子にとっては、絶望でしかありません。

イエス様は、それでも神様に祈って、み旨の通りになるように、神様のご計画に従いました。私たちを愛して下さっているのは、神様だけではありません。イエス様も私たちを愛してくださっていますから、神様のご計画に従ったのです。私たちは、この愛の業によって救われました。どうぞ、この一週間、イエス様の十字架の犠牲を憶えて感謝して、祈ってください。そして、イエス様の犠牲で私たちは救われていることに感謝しましょう。