Ⅱテサロニケ3:1-18

たゆまず良いことを 

 パウロは、コリントでこの手紙を書いています。コリントでは、テサロニケのようにうまく伝道が進んでいません。だから祈ってほしい。テサロニケの人たちが、パウロたちが宣べ伝えることに対し、あがめてくれたのに、コリントではそうはいきません。それに、テサロニケでもコリントでも、信仰のある人ばかりではないし、悪人どもから追われて危険な時もあります。テサロニケでは、パウロたちが伝えた福音を神のことばとして多くの異邦人に受け入れられました。そして、信じて救われたというだけでなく、その教えに堅く立ち、それを守り、実行していました。主はこれからも続けていくことを強く願っておられる。パウロは、そうした確信に立ってこう祈っているのです。

Ⅱテサロニケ『3:5どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。

.怠惰な生活を戒める

Ⅱテサロニケ『3:6~怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。

Ⅱテサロニケ『3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。


いったいどんなことが行われていたのか?を文脈から見ると、怠惰な生活をし、少しも働かずに余計なことをしている としていますが 怠惰な生活と余計なことが何なのかは書いていません。少なくとも、働かずにパンをもらっていた人がいることはわかります。それで、「働かないものは食べてはいけない」とパウロが指導していたように理解できますが、信仰の問題としてもとらえる必要があます。怠惰と言う言葉は、「働かない」「規律に従わない」との意味ですので、「働くことをせずに、やってはいけないことをする」人たちがいたということになります。それは、終末論的な理解から、職業倫理や規律を放棄した様子ではないかと思われます。つまり、「主の日が来てしまった」と妄信する人たちが、もはや働いても意味がないと考えて、働くことを止めて、働かない仲間を増やしていったということだと考えられます

パウロは、その怠惰な人達にも命令と言う強い言葉で、「働くよう」に言います。また、秩序正しく生活をしている人たちに対して、怠惰な生活をしている者によって引きずられていかないように、戒めます。さらにパウロは、この言葉に従わない人が出ることを予想して、警告するように言います。それも、敵としてではなく、兄弟として。 言うことを聞かないなら、その人とかかわりを持たないようにするしか方法が無いかもしれません。なぜなら、そうすれば、怠惰な人が自分の姿気が付くかもしれないからです。実際パウロが言っているのは、「罪を犯し続けるを教会から排除する」ことです。もちろん排除することを望んでいるわけではありません。ですから、怠惰な人を敵として見るのではなく、主にある兄弟として警告をする様に言います。「たゆまず良いことを」行い、忠告し続ける。そうすれば、分かってもらえるとの希望があるからです。

.結びの言葉

Ⅱテサロニケ『3:17 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます。』

結びの言葉は、パウロはどの手紙でも似た内容を書いています。しかし、この記の記事はどのパウロの手紙にもないものですⅠテサロニケからすぐ出されたパウロ自身の手紙ならば、Ⅰテサロニケと大きく違うようなことを書く必要は、ないでしょう。つまり、この手紙は、パウロの手紙ではないと考えられるのです。そういう視点で見ると、パウロは目が悪かったので、手紙自体は弟子に書かせて最後に大きい字で手紙にサインしていたと言われていますが、そのエピソードを利用したような記述ではないかと気になります。「パウロからの手紙だと強調したかった」と考えられます。という事は、「パウロの弟子がパウロの名によって書いた手紙」で、パウロの関与がなかったと考えることができるかもしれません。