使徒2:14-22

ペトロの説教(1/2)

 聖霊がイエス様の弟子たちに注ぎ、突然外国の言葉で聖書の話をしだしました。それを見て群衆は、驚いたので、「新しいぶどう酒に酔っている」などと言いました。そこで、ペトロはイエス様のお話(説教)を始めます。

 

1.ヨエルの預言


 ペトロは、ヨエル書を引用して説教をしました。使徒2:17-21と対応する箇所です。

 

ヨエル書『3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。』

 

ヨエル書は、預言者の一つで、ペトエルの子と冒頭にありますが、いつの時代の人なのかも良くわかりません。そして、ヨエルとは、「主(ヤハウェ)は神」という意味です。

 

主の日とは、主が来られる「世の終わりの日」のことを指しますので、使徒言行録の「終わりの時」と同じ意味になります。ペトロは、終わりの時がやって来ていること、そして、その時が来ているので聖霊が注がれ、預言や幻がこの場で行われていることを、ヨエルの預言を使って説明しました。

ルカ『10:9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。』

このように、イエス様は、「神の国は近づいた」と言われています。ですから、「主が来られる主の日が近づいている。」ことをペトロは前提にしています。



2.ペトロの説教(その1/2)


 ペトロは、最初に「朝の九時だからお酒に酔っているわけではない」と言います。もちろん、新しいぶどう酒に酔っているというのは、根拠がなく、弟子たちをあざけたものです。弟子たちがほかの国々の言葉で話し出したのは、ヨエルが預言していました。だから、聖書を根拠にその不思議な出来事を説明し始めました。要約すると次の通りです。

 

「神は言われる。終わりの時に、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。~地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」

 

 このヨエル書からの引用は、世の終わり日を預言したものです。聖霊が降った今、十一弟子たちはほかの国々の言葉で話し出しました。これは、聖霊の働きです。その聖霊は預言、幻、そして夢を呼び出すからです。今、その「主の日」がやって来ようとしているのです。

(注:当時は、主の日がすぐにやって来ると考えられていました)

 

そして主の日には、地上には滅びがやってきます。しかし、神様を求める者は滅ぼされずに救われます。そこには、救い主が現れるからです。

 

この「ヨエル書の主の日の預言」と、「救い主が現れるとの預言」を、ユダヤの人々は信じ、待ち望んでいました。ペトロは、そのユダヤの民が待ち望んでいる救い主こそイエス様だと話します。群衆は、イエス様の起こしたしるしを何度も見ていました。しかし、群衆は、イエス様を一人の預言者としか見ていませんでした。イエス様の業、奇跡、しるしを見て力のある預言者としていましたが、ローマの支配から救ってくれるような預言者ではなかったイエス様だったからでしょう。祭司長達や群衆は、イエス様を見捨てたのです。「その見捨てられたイエス様こそ、神様の遣わされたものである」とペトロは宣言します。

 

もとより、群衆はイエス様の業、奇跡、しるしを良く知っています。十一弟子も当然そうでした。しかし、十一弟子は、イエス様の復活を知ってから、信じたのでした。群衆も同じです。信じるまでには、至っていませんでした。さらに悪い事には、群衆はイエス様を十字架に掛けてしまったのですから、イエス様を信じることは自分の行ったことを否定することになります。 

ペトロは、聖霊が降った事によって、イエス様から力を頂いて説教をしました。イエス様こそ救い主であることを証しする時が来たのです。イエス様を信じて歩んでいる弟子たちは、聖霊を頂いたので、大胆に語ることが出来たのです。語ったことは、『ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。』ということです。それは、「あなた方が十字架に掛けたイエス様は、神様から遣わされた」と群衆をある意味で責めることになります。ですから、トロの説教は、たいへん大胆に行われたことがわかります。