ヨハネ20:11-23

わたしもあなた方を遣わす

 

1.マグダラのマリアに現れる

 マグダラのマリアについて、聖書には多くの記載はありませんが、「七つの悪霊を追い出していただいた」(ルカ8:2)と紹介されています。これをもとに、香油の壺を割って油をかけた「罪深い女」(ルカ7:37)と結び付ける説がありますが、根拠はありません。結果的にマグダラのマリアを貶める説だったわけですが、言い方を変えるとそれだけ重要で優秀なイエス様の弟子であったということだと言えます。聖書を見ても、マグダラのマリアは最もイエス様に近い女性であったことは間違いありません。いずれにせよ悪霊に縛られた人生は、希望を持つことができなかったに違いありません。その彼女の前にイエス様が現れて、悪霊を追い出したのです。彼女の人生は一変しました。それ以来、マグダラのマリアはイエス様を心から愛し、従い続けました。イエス様が十字架に架けられた時にもそこを離れず、復活の朝、誰よりも早く葬りのために墓へ駆け付けました。

 マグダラのマリアが墓に着くと、すぐに異変に気が付きました。墓の入り口をふさいでいた大きな石がどかされていたのです。また、番兵たちも誰一人いません。マリアはとっさに、「イエス様の遺体が取り去られた」と思い、すぐに弟子たちのところへ報告に行きました。彼女の報告を聞いてペテロともう一人の弟子が急いで墓へ駆けつけました。墓の中にはイエス様の遺体はなく、体に巻かれていた亜麻布と頭に巻かれた亜麻布が巻かれた状態で置いてありました。

 マグダラのマリアも遅れて再び墓に来ましました。彼女は墓の前で呆然と立ち尽くし、涙していました。そして墓の中をのぞくと御使いが二人いるのを目撃します。 御使いはマリアに向かって「婦人よ、なぜ泣いているのか」と質問します。マリアはそれに応えながら、振り向くと、そこにも人が立っていました。マリアはそれが園丁だと思って「遺体を引き取る」と言い出しましたが、「マリア」と言う呼びかけにやっとイエス様だと気が付きました。そのあと、マリアはイエス様に命じられた通り、再び弟子たちのところへ報告に行きました。

2.なぜ泣いているのか? 

 マグダラのマリアにかけられた御使いの言葉とイエス様のことばは、「なぜ泣いているのか」でした。これは明らかに、泣いている理由を聞いているのではありません。「泣く必要は もうありませんよ!」とニュアンスがあるのだと思われます。

 マリアにとって、イエス様がよみがえったことは、事実となりました。死んでしまったと悲しみに沈んでいたマリアに、「なぜ泣いているのか」と問うことで、ご自身の復活をマリアに知らせたのです。

 一方で、死んだ人が生き返るとはだれが信じるでしょうか?しかし、イエス様が墓の中からよみがえったことは、事実なのです。なぜならば、キリスト教への反対者たちは、キリストが死んだままであると立証できなかったのです。彼らの監視下にあった墓で、イエス様は復活したのです。遺体を収めた後、封印して誰も出入りできないように番兵までつけていました。そこから遺体が消えているのですから・・・

3.弟子たちに現れる

 復活したイエス様が弟子たちの中に立ちました。最初のことばは「あなたがたに平和があるように」でした。ヘブル語で「シャローム」と言ったのでしょう。ユダヤ人にとってそれは普通の挨拶です。弟子たちはどれだけ驚いて、喜んだでしょうか?その弟子たちにイエス様は続けて語りました。

『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』

 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』

 イエス様は息をかけて、弟子たちに聖霊を与えました。弟子たちの福音宣教のためには、聖霊の働きが必要不可欠であります。聖霊降臨日以降、弟子たちは伝道を始めますから、この場面ではまだ聖霊は待機している状態です。イエス様は、命の息によって、聖霊を弟子たちに与えました。

『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』

 福音の伝道はまさに人々の罪を赦す働きです。すべての人間は罪人であり、死後に裁きが待っています。そのとき、罪のある人を神様は祝福できません。ですから、罪のゆえに人間はその裁きを受けるしかないのです。しかし神様はイエス・キリストの十字架によって罪の赦しを下さいました。その赦しを受け取る方法はただ一つ、イエス・キリストを信じることです。私たちの罪のために十字架で身代わりとなって死なれ、そして墓より三日目によみがえられた事を です。この福音以外で罪を赦されることはありません。神様はすべての人が福音を信じて救われることを望んでいます。そして福音を信じたクリスチャンがこの福音宣教の働きに携わる事を願っているのです。