Ⅱテサロニケ2:1-17

慌てふためかないで

 この手紙の主題:イエス・キリストの再臨に関する誤った教えを正し、天の御国を待ち望みながら、落ち着いて自らの務めをなすように勧める。

 イエス・キリストが再びこの地に来られることは、「私たちが主のみもとに集められる」ことになります。主イエスが再び来られ、この地に天の御国が完成し、罪の故に歪められた世界は全く回復し、私たちは栄光の体に復活せられ、顔と顔とを合わせて、主イエスと相まみえるのです。神様ご自身が私たちとともにおられ、私たちの目の涙をすっかり拭い去り、もはや死も、悲しみも、叫びも、苦しみもないのです。

パウロとは異なる教え:「イエス・キリストがもう間近に再び来られる、いや、主の日がすでに来た」

テサロニケの教会では、落ち着きを失い、心騒がせ、自分の務めをしなくなった者たちがたようです。パウロは、そのような偽の教えに「だまされないようにしなさい」と告げ、キリストが再び来られる前兆として、「不法の人、すなわち滅びの子」が現われると告げました。その滅びの子とは、人々を惑わす偽預言者のことです。人々もまた、福音を受け入れず、偽預言者の言う事を信じてしまいます。

Ⅱテサロニケ『2:12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。

 ですから、偽預言者の言葉に「慌てふためかないで」落ち着く必要があります。

救いに選ばれた者の生き方

 パウロは、テサロニケ教会の人々を「主に愛されている兄弟たち。」と呼び、テサロニケ教会の人々に神が救いにお選び下さった、すなわち、「天の御国」が用意されているのだから、落ち着きを失うことなく、心騒がせることがないようにと告げたのです。そして、神への信頼に立って、他の教えに惑わされないで、パウロの教えや記した手紙に聴き、天の御国を待ち望みながら、自らの務めをなすようにと教えました。私たちも、神様の一方的な恵み、イエス・キリストの十字架により罪赦され、天の御国が用意されており、イエス・キリストは、そこに導き入れて下さいます。主イエスがともにいて下さるとの信頼に立って、神の御言葉に聴き、養われ、自らの務めを果たしていきたいと願います。

パウロは、そのように、救いの恵みの事実を思い起こさせ、神への信頼に堅く立ち、天の御国を待ち望んで、自らの務めに生きていくことを教え、そして神に祈りました。教え、そして祈りをなすということは、パウロの手紙において繰り返されていることです。それは、私たちの信仰生活は、私たちの力や決意に拠るのでもなく、私たちを愛し、一方的な恵みによって永遠の慰め、天の御国の希望を与えて下さった私たちの主イエス・キリスト、また私たちの父なる神ご自身に拠るものだからです。「心」とは、私たちの知識、感情、意志のがあり、私たちの存在していることを表しています。イエス・キリストと父なる神が、私たちの存在の源を慰め、強めて下さるのです。私たちの存在の源を慰め、強めることにより、「自らの務め」をなすことができるよう導いて下さるのです。「自らの務め」とは、具体的な仕事だけではありません。「あらゆる良いわざとことばとに進むよう」と、何か大きな事柄ではなく、日常の一つひとつの歩み、言葉のことでもあります。

 イエス・キリストの再臨と天の御国を待ち望む生き方は、浮足立って歩むことでも、浮世離れして歩むことでもなく、天の御国に導き入れて下さる主への信頼に堅く立って、今日というこの日に、主によって心を慰め、強めていただき、善い業と言葉に進歩みことです。天の御国を確かに待ち望みながら、御言葉に聴き養われ、父なる神と主イエス・キリストによって、存在の源を慰め、強めていただき、この週も新たに、あらゆる良い業と言葉に進ませていただきたいと願います。