マタイ18:1-20
迷い出た羊
1.天の国で一番偉い者
『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と弟子たちは聞きました。
弟子たちは、天の国に入れるとの前提で、何番目に自分がなるのかに興味があったのでしょう。うがった考え方をすると、順位が低ければ「自らの意思で天の国に入らない」ことも、考えられることになります。そうまでなくても、最初に「天国に入りたい」という純粋な願いを持ったのではなく、より高い立場を希望しているわけです。それをイエス様は指摘されました。そして、子供の様な小さいものにも最も腰を低くするものこそが、天の国では一番偉いと教えます。
2.罪への誘惑
『大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。』 これは、古典的な、私刑です。日本では「簀巻き」と呼ばれる手口です。ある人の反感を買ったがゆえに、証拠として水死体が上がってこないように、重しをつけて、深い水の中に沈められるのです。不名誉な死であるばかりか、行方不明として、存在していたことの記憶すら、無くされてしまうものです。そんな、不名誉ですべてを消されてしまう死を選ぶ方が、イエス様を信じる小さなものたちをつまずかせるよりは、ましであると言われます。つまり、人をつまずかせることが大きな罪であり、万死に値するという事です。
しかし、人はそれを避けることができません。その躓かせるものが体の一部であったならば、取って捨てなさいとイエス様は教えます。
真の命を長らえるには、それら誘惑は、取って捨てるしかないからです。
3.「迷い出た羊」の譬え
『そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。』
イエス様は、十字架の出来事と復活を弟子たちに預言していました。そして、弟子たちが羊飼いとして小さなものを牧会する上での注意をします。その小さな羊をもしっかり導き守るように。決して、躓かせてはならないし、迷い出たらきっと探し出して群れに戻すように。そして、その羊の群れを守り、働くことがイエス様に仕えることになることを教えたのです。
4.「兄弟の忠告」の前に
1節から14節の間に、イエス様は、兄弟との交わり方(教会の人間関係)にかかわるお話をします。これは、兄弟の忠告を行うにあたっての前提になっています。つまり、この忠告を兄弟にする前に、この三つのことを確かめておく必要があります。
『18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。』
自分の考えだけを主張するのではなく、素直に人のいう事を聞くことが大事です。もちろん、そのような人を「偉い」とは言っておりますが、それは天の国でのことです。どんな人であれ、教会では上下という関係はないのです。
『18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。』
つまずくとは、文字通り信仰の道に凸凹があって、そこに足をかけてしまって、よろけることです。イエス様は、信仰が順調に育つばかりではなく、時にはつまずくと言っています。しかし、躓かせるようなことは、してほしくないのです。人をつまずかせて、その人が信仰を取り戻すことが出来なかったら、悲しいばかりですから。
『18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」』
天の神様は、大きい者だからとか、小さいものだから ということは考えられません。誰もが大事なのです。誰であっても、その信仰が保たれるよう、謙虚に対応して、そしてどんなに相手が悪くても、切り捨てることなく手を差し伸べてほしいのです。ましてや、相手をつまづかせるようなことをしてしまっては、相手も自身も不幸でしかありません。
5.兄弟の忠告
『兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。』
皆の前で忠告すると、傷つくことに配慮しなければなりません。また、忠告しているところに偶然いあわせてしまうと、不快に思う人もいます。また、あなたが主張する相手の「罪」に、悪意がないものだったりで、気づいていなかったりします。そして、あなたの主張が勘違いかもしれません。ですから、他の人の前で忠告をせずに、聞き入れてくれることを期待して、二人だけで話をした方が良いです。
それから、忠告をしないで、相手に改善する機会を与えないことも、相手がいないところで、相手の「罪」のことを話すのも、相手をつまづかせる行為です。また、あなたが上で相手が下と言う関係ではありません。なぜなら、相手側の「罪」を受け止めてもらうと同時に、あなたの「罪」についても受け止めるときであることを理解しましょう。
『聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。』
二人で話してみても、聞き入れてくれなかった場合、証人をおきましょう。(あなたが聞き入れない時も同じようにしてください)もし、相手が感情的になってしまっていたら、中立の人が立ち会うことによって、冷静になってもらうことが出来るでしょう。そうしたら、聞き入れてくれるかもしれません。また、立ち会ってくれる人が、客観的で正しい理解を教えてくれることもあるでしょう。
『教会に申し出なさい。』
仲裁に人が入っても解決しない場合、教会の言うことなら聞き入れてくれることを期待して、公にするしかない時もあります。相手が受け入れない、あなたが無理を言っている、仲裁者がややこしい話を持ち込む等々 仲裁人を含めた関係を調整できなかった場合です。このような時は、最後の手段として、教会全体の最適で判断してもらうのが良いでしょう。ただし、この場合は、相手もあなたも、仲裁人もみな教会の決定に従う事が前提です。ですから、教会は決定をする前に、誰もが受け入れることが出来る 調停案を検討するでしょう。
『その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。』
教会の仲裁も受け入れないなら、異邦人や徴税人 つまり 罪人とみなしなさいとのイエス様の言葉です。これは、イエス様が異邦人と徴税人を見放しているという意味ではありません。一緒になって複数の人が心を一つにしてイエス様に求めるならば、その最後まで行きつくことはありません。どこかの段階で、必ず忠告が受け入れられると、イエス様は教えています。
6.わたしもその中にいる
必ず忠告が受け入れられるのは、その相手に そして あなたに そして 仲裁人として
イエス様が、その忠告の場に 臨まれているからなのです。そのためには、私たちはイエス様に祈ってその場に臨むことが必要です。
そのように、必ずそのどこかの段階で、良い結果が生まれることをイエス様は教えています。